Ir a página principal
06/04/2013
FAQs Dudas y comentarios Sitemap
Directorio UNAM Sitios Web en la UNAM podcast UNAM webcast UNAM TV educativa correo UNAM canal de la unam en youtube twitter de la UNAM Facebook de la UNAM Gaceta de la UNAM
Sitio Web personal
Compartir
EspañolInglésFrancésAlemánChino
大学運営委員会
UNAMに関する法律
UNAM電話案内
時代の流れの中のUNAM
UNAMとは
2008年度UNAM統計
機関組織


時代の流れの中のUNAM

UNAMの歴史の記録 メキシコ国立自治大学歴代総長略伝



  • 1910

  • 1920

  • 1930

  • 1940

  • 1950

  • 1960

  • 1970

  • 1980

  • 1990

1910年
4月、フスト・シエラ (Justo Sierra) が、大学を構成することとなる高等教育国立学校関連法をまず提案し、続いて同月26日に国立大学設立プロジェクトを提案した。
除幕式セレモニー
この新たな教育機関は、国立高等学校、法学部、医学部、工学部並びに建築教育並びに高等教育に関連した芸術学によって構成されている。 最終的にプロジェクトが承認され、9月22日にメキシコ国立大学の除幕式が盛大に執り行われた。この新たなメキシコの大学の「庇護者」となったのは、サラマンカ (Salamanca)、パリ (Paris)、バークレイ (Berkeley) の三大学であった。
メキシコ国立大学の初代総長にホアキン・エギア・・リス (Joaquín Eguía Lis) が任命された。この日より、すでに存在していた各種国立学校の教員、学生が大学構成員となった。国立大学の開設は正当派実証主義者を頑固に守るグループにも受け入れられた。アグスティン・アラゴン (Agustín Aragón) とオラシオ・バレダ (Horacio Barreda) は、実証主義の雑誌で、大学というのは、人類発展の際表明される期間であり、メキシコはその期間は既に達成出来ているとして、シエラ を攻撃した。
大学開設行事でのポルフォリオ・ディアス
開設祝典
実証主義に相対する青少年学会会長でもあり大学書記でもあったアントニ・カソ (Antonio Caso) 青年は、大学擁護に立ち上がった。その後、同青年会から多くのメンバーが国立大学を擁護するため協力することになった。カソ とアラゴン (Aragón) の論争を通じ高等教育機関に関する双方の主張を検証 するこ80とになった。
1911年
メキシコ革命

メキシコ国立大学創設初期にメキシコ革命が勃発した。フランシスコ・I・マデロ (Francisco I. Madero) の蜂起によって醸し出された政治危機は、大学にも少しづつ影響を及ぼしてきた。同年3月、ポルフィリオ・ディアス (Porfírio Díaz) はリマントゥル (Limantour) 大蔵大臣を除いたほとんどの閣僚に辞任を要求した。それはドン・フスト(シエラ) と彼の忠実な協力者で副大臣 を務めていた エセキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez) も含むものであった。

シエラ の後任には、ホルヘ・ヴェラ・エスタニョル (Jorge Vera Estañol) が就任した。しかしながら、2ヵ月後の5月25日、ポルフィリオ・ディアス (Porfírio Díaz) 辞任を発表した。新大統領フランシスコ・レオン・デ・ラ・バラ (Francisco León de la Barra) の就任に伴ってフランシスコ・ヴァスケス・ゴメス (Francisco Vázquez Gómez) が公教育大臣に就いた。

エギア・イ・リス(Eguía y Liz) は、大学総長を続けていた。正当派実証主義者であるアラゴン (Aragón) とバレダ (Barreda) は国会にメキシコ国立大学と高等教育機関の廃止を提案した。既に独立した形態で専門学校及び高等学校が存在しており、大衆の要望する基礎教育に対応しなければならない時、高等教育としての学校に費やされる予算は高くつく結果になるからである。しかし、第25期国会はこの提案を承認しなかった。

メキシコ革命
ポルフィリオ・ディアス 将軍
1912年

フスト・シエラ によって提案された大学スローガン

共和国大統領マデロ (Madero) のもとで、新しい時代に向けての政治的熱を通して、メキシコにあらゆる種類の可能性が開かれた。副大統領ホセ・マリア・ピノ・スアレス (José María Pino Suárez) は公教育大臣を兼任した。メキシコは騒乱の時代にあり、大学も無関係ではなかった。ポルフォリオ (Porfírio) 体制反対派のジャーナリストとして傑出し、首都選出の下院議員として圧倒的な勝利を保っていたルイス・ガブレラ (Luis Cabrera) は法律学校の円熟した校長だが、彼自身によって導入された評価基準による抗議として同校生徒達がストライキを宣言した。

 

フスト・シエラ によって提案された大学スローガン 7月3日、少なくとも大多数の学生は新たな学校、自由法律学校を形成するために大学生の身分を放棄することを決定した。

7月15日、法律学校が再開された。メキシコ国立学校の推進者、フスト・シエラ (Justo Sierra) 死去に際して、大統領マデロ (Madero) も出席して国立高等学校で追悼セレモニーが10月に挙行された。第26期通常国会 を始めるにあたって、下院議員は大学問題を取り扱った。正統派実証主義者アラゴン (Aragón) とバレダ (Barreda) の要求は、大学及び高等教育学校問題を議会の討論議題に復活させることであった。フェリックス・F・パラヴィチニ (Félix F. Palavicini) 、ラファエル・デ・ラ・モラ (Rafael de la Mora)、アルフォンソ・カブレラ (Alfonso Cabrera) はメキシコ国立大学、高等教育機関の存続に賛成する強固な論拠を提示した。もちろんそれは、カソ (Caso) 、ペドロ・エンリケス・ウレニャ (Pedro Henríquez Ureña)の教示が彼らより若い世代、後に「七賢人」の時代として知られている世代の 共感を得始めていた。

フスト・シエラ師
1913年
国立高等学校の軍事化

大統領マデロの解任と暗殺 後、権力を得たヴィクトリアノ・ウエルタ (Victoriano Huerta) のもとでメキシコの軍事化が 推進された。新政権は北部、南部の革命軍と戦わなければならなかったので、 軍隊へは、可能な限りあらゆる階級から徴集された。この状況下で高等学校の軍事化が進んだ。8月30日、国立高等学校の軍事訓練組織化のための 臨時法案が制定された。

学校長は陸軍大佐が総司令官を務め、事務局長は中佐が、それ以下の役職に関しては、軍の階級に従って定められていった。教員は大尉、図書館職員は准尉階級と考えられ、学生は一般兵士と考えられていた。

この状況下で、年末に歯学教育の国立診療所が国立歯学学校となった。12月1日、エセキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez) が大学の総長に任命された。

エセキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez) と大学青年グループ、チャヴェス (Chávez) の右側、ホセ・ヴァスコンセロス (José Vasconcelos)
1914年
国立図書館の手稿・写本展示室

ウエルタ (Huerta) 体制下、公教育大臣ネメシオ・ガルシア・ナランホ (Nemesio García Naranjo) は実証主義派の痕跡を一掃する高校教育プラン 打ち出した。ガルシア・ナランホ はアテネオ派青少年学会 “Ateneo de la Juventud”に所属していたことをここに言及しておく。その後4月15日、行政は新たな国立大学法を公布した。米国海軍のヴェラクルス (Veracruz) 占領に直面し、公教育省はメキシコ国立大学総長に対し、侵略軍と対峙するような場合には大学生の出動を要請した。

護憲派体制の下で、9月30日、国立大学法改定案が発布、公教育大臣フェリックス・F・パラヴィチニ (Félix F. Palavicini) は大学に自治権を 与える法案を まとめた。 エセキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez) 、アントニオ・カソ (Antonio Caso)、アルベルト・ヴァスケス・デル・メルカド (Alberto Vázquez del Mercado)、へナロ・フェルナンデス・マックグレゴル (Genaro Fernández MacGrégor) 、マヌエル・ガミオ (Manuel Gamio) 、マヌエル・トウサン (Manuel Toussaint) などの傑出した教授グループが上述の法案を支持した。ヴァレンティン・ガマ (Valentín Gama) が当時の大学総長であった。12月、国立図書館と国立歯学学校が大学に編入された。

1915年

メキシコ革命
この年、大統領エウラリオ・グティエレス (Eulalio Gutiérrez) 将軍とホセ・ヴァスコンセロス (José Vasconcelos) 公教育大臣の指揮下の革命派勢力が首都で活動を始めた。ヴィジャ (Villa) とオブレゴン (Obregón) 勢力間の 激しい対立の年、首都においては、徐々に護憲派勢力の支配が取り戻され、民衆への食糧が不十分という状態ではあったが日常生活は平常を回復しつつあった。大学に関しては、ヴェヌスティアノ・カランサ (Venustiano Carranza)によって署名された大学自治法のプロジェクトが公表された。 ホセ・ナティヴィダッド・マシアス (José Natividad Macías) が大学総長に任命された。
1916年

化学教室

革命派勢力は重要な政治社会改革プログラムを通じ協議に対する影響力を未だ保持していたが、護憲派もその勢力を増していった。しかしながら、カランサ (Carranza) は新共和国憲法の議論と制定に向けて下院議員選出を公布した。制憲議会は同年12月1日にケレタロ (Querétaro) 市に設置された。

一方、国立大学は無料で教育を行うことを中止する公式の規程を制定した。

学生は受講する科目数に関係なく5ペソを払わなければならなくなった。

9月23日、公教育省の下に、国立化学工業 学校が創立された。公教育省に付随していた国立農業学校から獣医学校が分離した。9月22日、ミゲル・E・シュルツ (Miguel E. Schultz) が大学の臨時総長に就任した。
1917年

2月5日に公布された新憲法は、多くの革命家グループの要望が取り入れられ、新しい政治・社会秩序が練られた。新憲法の教育行政に関して、公教育・芸術省が廃止され、それに代わって、大学・芸術局が置かれ、その部局の勢力範囲は、旧省同様首都圏、連邦区内に留まっていた。初等教育は各地方自治体に再度戻し、 中等・高等教育は各州政府に帰属することになった。

教育改革に伴い、大学付属機関であった研究所や博物館同様、国立高等学校もメキシコ市政府の管轄となった。一方、メキシコ国立大学の総長は、共和国大統領 直属の大学・芸術局の局長を兼任することとなった。制憲議会議員のホセ・ナティヴィダッ・マシアス (José Natividad Macías) は改めて大学総長にカランサ (Carranza) 大統領より任命された。これらの改革案に関し、全員が快諾していた訳では無かった。

一方では、大学の自治を与えるべきだとイニシアティブを発揮するグループが登場し、また一方では、今回新たに創設された局が大学の付属組織であるという事実に反対するグループも出てきた。「七賢人」グループメンバーであるのアルフォンソ・カソ (Alfonso Caso) は、カランサの反大学政策に 抗議して自由高等学校を創立した。ミチョアカン (Michoacán) 州ではパスクアル・オルティス・ルビオ (Pascual Ortíz Rubio) がサン・ニコラス・デ・イダルゴ (San Nicolás de Hidalgo) 自治大学を創立した。

1918年

1917年にアメリカ合州国が参戦するに及んで世界大戦へと拡大したヨーロッパでの戦争がこの年終焉した。メキシコは大戦中輸出用の高い石油生産性によって戦略的役割を担った。この年がカランサ 政権が最も安定していた年でもあった。

カランサ は労働政策変更を発表し、プルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) 将軍に代わってアルベルト・J・パニ (Alberto J. Pani) をベルサイユ講和会議に派遣した。500人以上の生徒を受け入れることになった国立高等学校内に設立された自由高等学校創立を除き、この年、大学ではあまり大きな変化はみられなかった。

マヌエル・ゴメス・モリン (Manuel Gómez Morín) やヴィセンテ・ロンバルド・トレダノ (Vicente Lombardo Toledano) のような 優秀な知識人を教員として 招聘した。当時、首都圏やジャーナリズムを巻き込んでいた連合軍派かドイツ支持かの議論集会に大学生も参加していた。ウルグアイ人であるホセ・エンリケ・ロド (José Enrique Rodó) の思想に影響を受けたことに源を発するラテンアメリカ主義に学生達が触発されていた。カランサ 政府はアルゼンチン、チリ、ウルグアイの大臣が出席した祭典を組織することによってラテンアメリカニズムを推進した。また、学生団体をラテンアメリカ諸国に派遣した。

1919年

アメリカからの内政干渉が強まった年で、プエブラ (Puebla) のアメリカ領事だったウィリアム・O・ジェンキンス (William O Jenkins) が誘拐され、これを受けて当時米国共和党上院議員だったアルベルト・B・フォール (Alberto B. Fall) はメキシコを非難するため特別委員会を設立した。この事件は国際的な危機をもたらした原因にもなったが、最終的にはウィルソン (Wilson) 大統領の懸命な判断によりこの事態が収拾されたことで、メキシコ国内の事柄に米国が干渉してくることに対し抗議していた国粋主義派の学生を収めることが出来た。 国内情勢としては、この年エミリアノ・サパタ (Emiliano Zapata) が暗殺された。

フランシスコ・ヴィジャ (Francisco Villa) はカランサ (Carranza) 政府軍に包囲されていたため、交戦状態にあった地域より南へは攻撃を仕掛けることはできなかった。マヌエル・ペラエス (Manuel Peláez) はウアステカ (Huasteca) で戦闘を続けており、カランサ はこれらの動きに対して、9月にこの戦争の終結と和解を申し出た。6月にアルヴァロ・オブレゴン (Álvaro Obregón) が次期大統領候補として名乗り出たが、その直後パブロ・ゴンサレス (Pablo González) 将軍もまた同様にして大統領候補として名乗りを上げた。学生側は様々な政治形態を求めマニフェスト運動を展開していった。


Defensoría de los Derechos Universitarios Portal de transparencia Teléfonos y medidas de emergencia
このwwwサイトの著作権はUNAMにあります。サイトの内容を無断で複写・複製することはできません。ただし、そしきに届け出ることにより変更可能です。情報源