Ir a página principal
06/04/2013
FAQs Dudas y comentarios Sitemap
Directorio UNAM Sitios Web en la UNAM podcast UNAM webcast UNAM TV educativa correo UNAM canal de la unam en youtube twitter de la UNAM Facebook de la UNAM Gaceta de la UNAM
Sitio Web personal
Compartir
EspañolInglésFrancésAlemánChino
大学運営委員会
UNAMに関する法律
UNAM電話案内
時代の流れの中のUNAM
UNAMとは
2008年度UNAM統計
機関組織


時代の流れの中のUNAM

UNAMの歴史の記録 メキシコ国立自治大学歴代総長略伝



  • 1910

  • 1920

  • 1930

  • 1940

  • 1950

  • 1960

  • 1970

  • 1980

  • 1990

1920年

3月から選挙活動を繰り広げていたイグナシオ・ボニージャス (Ignacio Bonillas) がカランサ の後継者として正式に選ばれた。4月にオブレゴン (Obregón) は忠誠を誓っていたロベルト・セフ-ド (Roberto Cejudo) 将軍の裁判の言明のため召喚されたが、その裁判所から密かに抜け出し、ゲレロ (Guerrero) へと逃れた。

一方、ソノラ (Sonora) 州知事は、4月23日政府の与り知らぬアグア・プリエタ (Agua Prieta) プランをもってカランサ 政府に対抗しようとした。5月6日カランサは首都 から逃亡したが、プエブラ (Puebla) 州トラスカラントンゴ (Tlaxcalantongo) で同月21日に暗殺された。パブロ・ゴンサレス (Pablo González) 軍が首都を占拠している間、バルビーノ・ダヴァロス (Balbino Dávalos) が 大学の臨時総長に選ばれた。抵抗勢力の勝利の結果、評議会はアドルフォ・デ・ラ・ウエルタ (Adolfo de la Huerta) を臨時大統領に指名した。

ヴァスコンセロス (Vasconcelos) は、総長就任の際「今私は大学のために働きに来ているのではなく、大学が国民のために働くようお願いしに来ているのです」と挨拶し、その言葉どおり、現在の公教育省の前身ともいえる教育連邦機関の創設、国立高等学校の大学への付属化、目下国の目標だった識字化運動を推進し、女性の学業支援、衛生教育、貧しい学生のための授業料免除など、彼の努力はメキシコの教育界にいろいろな足跡を残した。

この間、エセキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez) は教育中央集権化プロジェクトに携わり、大学はこれまでの10年間で見たこともないような活力であふれていった。この年の12月1日アルヴァロ・オブレゴン (Álvaro Obregón) が大統領として正式に 就任した。

1921年

この年より、ヴァスコンセロス (Vasconcelos) 派が推進するアイデアが最も浸透していったと言える。それは以下の通りである:メキシコの北の国境からアメリカ大陸最南端のカボ・デ・オルノス (Cabo de Hornos) 岬まのラテンアメリカ地図の上を鷲とコンドルが旋回しているデザインの紋章と「我が民族の名において精神は語るであろう」というスローガンが法律で制定された。また公教育省創設のための新しいプロジェクトが立ち上げられた。ペドロ・エンリケス・ウレニャ (Pedro Henríquez Ureña) 総局長は夏期学校、学外交流付属学校局などを設立した。

9月20日、ボリヴァル (Bolívar) 講堂で第一回国際学生大会が開催された。参加者の中にはアルゼンチン人のアルナルド・オリフィラ・レイナル (Arnaldo Orfila Reynal) やメキシコ人のダニエル・コシオ・ヴィジェガス (Daniel Cosío Villegas) などもいた。ディエゴ・リヴェラ (Diego Rivera) 、ホセ・クレメンテ・オロスコ (José Clemente Orozco) 、フェルナンド・レアル (Fernando Leal) 、ジャン・シャルロット (Jean Charlot) たちの手によって、国立高等学校の建物に壁画が描かれた。

ヴァスコンセロス (Vasconcelos) の全国視察の後、国民議会は国立大学を管理する公教育省創設にあたっての憲法改正を承認した。10月10日、ヴァスコンセロス が公教育省大臣になった後、総長にはマリアノ・シルヴァ イ アセヴェス (Mariano Silva y Aceves) が短時間臨時総長を務めた後、アントニオ・カソ (Antonio Caso) がこれを継ぐことになった。

1922年

数学教師として名声を得ていたソテロ・プリエト (Sotero Prieto) が国立高等学校校長職として受け入れられなかったため、ヴァスコンセロス (Vasconcelos) 自身が校長になることを宣言し、大きな問題となった。カソ (Caso) 総長はこれを異例の事とし、ヴァスコンセロス に抗議するため総長辞任を表明したが、大学側には受け入れられなかった。

この事件のすぐ後にヴィセンテ・ロンブラド・トレダノ (Vicente Lombardo Toledano) が校長として任命された。もともと大学は公教育省の管理下におかれていたため、大学の指導権は省庁によるところが大きかった。

大学はオブレゴン (Obregón) 政権が支援する国家教育制度の一部としての位置づけであった。

1923年

旧サンルイスポトシ (San Luis Potosí) 科学文芸研究所は、サンルイスポトシ 自治大学として開校された。ロンバルド(Lombardo) 校長とヴァスコンセロス (Vasconcelos) 教育相との間で高校をめぐって対立するという新しい問題が浮上した。

この対立はロンバルト (Lombardo) 校長の労働党出身の好戦的な態度ということが主な原因で、高校の学生はサルヴァドール・アスエラ (Salvador Azuela) を中心として教育相に敵対した。ロンブラルド (Lombardo) 校長は辞任し、ヴァスコンセロス (Vasconcelos) がこれを承認したが、カソ (Caso) 総長は、自らも総長を辞任することで異議を申し立てた。これに伴い夏期学校制度と高等教育学校でより素晴らしい教授とされていたペドロ・エンリケス・ウレニャ (Pedro Henríquez Ureña) 教授も辞任を表明した。

9月に入ると、オブレゴン (Obregón) はアメリカ政府によるメキシコ政府の正式な承認を得たと発表した。これはオブレゴン (Obregón) が自分の政権発足当時から苦労して政権立て直しを図ってきた成果であり、ブカレリ (Bucareli) 協定によって認められた。

次期大統領にプルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) が選ばれたことを受けて、大統領候補であった当時税務庁長官のアドルフォ・デ・ラ・ウエルタ (Adolfo de la Huerta) が辞任を表明した。

ヴァスコンセロス (Vasconcelos) はカジェス (Calles) 政権に傾倒こそしなかったが、政府に忠実だった。カソ 総長が辞任し、代わりにエスキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez) が総長に任命された。当時法学部の学生だったルイス・ルビオ・シリセオ (Luis Rubio Siliceo) は、メキシコ学生連盟に対して自治大学を設立するプロジェクトを提案した。この提案はペドロ・デ・アルバ (Pedro de Alba) を筆頭に96人もの議員の支持をうけ、9月可決された。またこの年、国立第2付属高校が設立された。

1924年

12月にアドルフォ・デ・ラ・ウエルタ は公教育省が多額の資金を横領しているのではないかと疑い予算削減を発表した。これに対抗してヴァスコンセロス は辞任を表明したが、7月2日まで受理されることはなかった。

ヴァスコンセロス の後を引き継いだのはベルナルド・J・ガステルン (Bernardo J. Gastélum) だった。彼はエスキエル・A・チャヴェス(Ezequiel A. Chávez) に大学を自治組織とする要求をしたが、受け入れられなかった。10月1日、旧高等教育学校は文学部、上級教員養成学校、卒業者学部に分かれ、科学の分野は文学部に組み込まれた。

12月1日、プルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) は大統領に就任した。また彼は、ホセ・マヌエル・プイグ・カサウランク (José Manuel Puig Cassauranc) を公教育大臣として指名した。総長はオルフォンソ・プルネダ (Alfonso Pruneda) が就任した。

1925年

ヴァスコンセロス (Vasconcelos) によって 刻まれた国の教育創造的で美的であるべきという概念は、当時公教育省副大臣だったモイセス・サエンス (Moíses Sáenz) によって実用主義にとってかえられた。この時期最も実りがあったのは、12月31日にサエンス (Sáenz) により交付された付属中学の設立であったが、そのため、同年学業年度の国立高等学校の1−3年が廃止されることになった。

大学付属としての高校でそのまま残ったのは、第2付属高校のみだった。1月30日大学評議会において前大統領であったオブレゴン (Obregón) が取り決めた文学部と上級教員養成学校設立に関する文が読み上げられた。このようにして化学科学部が化学薬学部 と名前が改められた。

1926年

学生自治会は当時ヨーロッパに亡命していたヴァスコンセロス (Vasconcelos) の 学術面でのリーダーシップぶりを改めて痛感していた。またこの年連続しない一度のみの大統領再選が認められた。

省令によってカトリック教会の権限を縮小しようとする動きに対抗して教会と国が対立していた中、すでに故郷に帰っていたオブレゴン (Obregón) を次期大統領候補にしようとしていた。

信仰の自由を守れという運動は都市部を中心に全国に広がっていった。そして、農村地域では特にサカテカス (Zacatecas)、ハリスコ (Jalisco)、コリマ (Colima) 、ミチョアカン (Michoacán) 州などで、この戦いが激化した。大学では大学図書館規則が承認された。

1927年

オブレゴン(Obregón) の元協力者であったフランシスコ・セラノ (Francisco Serrano) は大統領に立候補した。また再選反対党の党首であったヴィト・アレシオ・ロブレス (Vito Alessio Robles) に推薦されてアルヌルフォ・R・ゴメス (Arnulfo R. Gómez) が 大統領に立候補した。

10月のはじめ、セラノ (Serrano) はオブレゴン (Obregón) 、カジェス (Calles) とアマロ (Amaro) を排除すべくクーデターを企てた。しかしこの企ては発覚し、4日にクエルナヴァカ (Cuernavaca) でセラノ (Serrano) 自身の霊名の日を祝っている最中に、彼の支持者とともに捕らえられ、メキシコ市へ護送途中で暗殺された。

1ヶ月後、ヴェラクルス (Veracruz) 州のテオセロ (Teocelo) にいたゴメス (Gómez) 将軍もまた暗殺された。これで 再選反対派勢力は排除されたが、教会と国の戦いは激化する一方だった。この年の大学の動きとしては特に目立ったものは無く、自治組織の可能性について引き続き意見交換がされていた。

1928年

学生連盟によって出された法律案は上院議会では可決されなかった。建築学部の学生だったマウリシオ・カンポス (Mauricio Campos) とマルシアル・グティエレス・カマレナ (Marcial Gutiérrez Camarena) はウイプルコ (Huipulco) あたりに大学都市を建設するプロジェクトを卒業論文として発表した。

後に教授や講師のための住まいとしてロマス・デ・ソテロ (Lomas de Sotelo) のいくつかの土地が購入されたが、実行には移されなかった。

次期大統領に再選されたアルヴァロ・オブレゴン (Álvaro Obregón) は7月17日サン・アンヘル (San Ángel) にあるラ・ボンビージャ (La Bombilla) というレストランで 暗殺され、プルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) の政権が終わる12月1日この一連の政治危機にピリオドを打つようにエミリオ・ポルテス・ヒル (Emilio Portes Gil) が臨時大統領に選ばれた。

公教育省大臣にエセキエル・パディジャ (Ezequiel Padilla) 、大学総長にアントニオ・カストロ・レアル (Antonio Castro Leal) が選ばれた。

1929年

3月に革命国民党が結成された。国内の「革命勢力」が結集する形での結成であった。すでにプルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) は大統領ではなかったが、この革命的国民党を通じて、背後で絶対的な権力を握っていた。これに対して将軍・オブレゴン派 (Obregón) ・正統派は北部地域で武装蜂起を試みた。

軍部で頭角を現したサトゥルニノ・セディジョ(Saturnino Cedillo) は、ゴンサロ・エスコバル (Gonzalo Escobar) 率いる対抗勢力を弱体化した。また、エンリケ・ゴロスティエタ (Enrique Goroztieta) 将軍の死や海外に亡命していた何人かの司教を呼び戻したことによりクリステーロの乱 (Movimiento Cristero) の勢いを削ぐことになった。

パスクアル・ディアス ( Pascual Díaz) はポルテス・ヒル (Portes Gil) に教会と国との仲裁をすると申し出た。ブラジルの大使を務めていたパスクアル・オルティス・ルビオ (Pascual Ortíz Rubio) は次期大統領候補としてPNRから立候補した。

また一方で、ホセ・ヴァスコンセロス も次期大統領の座を狙って、選挙活動のためメキシコ北部のバハカリフォルニア (Baja California) 州などからメキシコ各地を訪問した。このことは、多くの学生達や中間層の支持を仰いだ。

大学では、2月27日に授業単位の3ヶ月規則が発表された。その2ヵ月後、特に法学部と社会科学学部に向けてアントニオ・カストロ・レアル (Antonio Castro Leal) 学長は、異なった制度の学校の学生にも合うシステムの導入の必要性を説いた。

法学部の学部長だったナルシソ・バソルス (Narciso Bassols) は学生を評価するための新しい制度を導入すると発表した。この提案に対し学生達は激しく抵抗した。5月4日に法学部の学生によって開かれた学生 総会では、公教育大臣だったエセキエル・パディジャ (Ezequiel Padilla) との問題解決を求める 臨時ストライキ委員会が結成された。もし、解決しない場合は、12日にストライキ決行ということになっていた。

大学側は、もしストライキ決行となれば法律学校を閉鎖することを警告した。学生側は 事務総長ダニエル・コシオ・ヴィジェガス (Daniel Cosío Villegas) と対話することが許されたのみで、学長との対話は実現せず、ついに5月5日ストライキ決行を宣言した。これに対してバソルス(Bassols) 法学部長はこのストライキにかかわった学生の指導者を大学から追放すると脅迫した。

法律機関からの支援を得たことから、ポルテス・ヒル (Portes Gil) 大統領とカストロ・レアル (Castro Leal) 総長は法律学校の閉鎖と、このストライキに賛同する学校は閉鎖すると発表、武力の行使も辞さない事態に一時は騒然となったが、 5月8日、集会の自由などが認められ、そのための場所として高校の講堂が総長によって提供された。

学生達はこの問題の原因といきさつを説明したものを大統領に送り、仲裁を要請することで合意した。また、次の日には、アレハンドロ・ゴメス・アリアス (Alejandro Gómez Arias) 率いる全国学生同盟もこの学生運動を支持するように連盟に要請した 。

ゴメス・アリアス 、サルヴァドール・アスエラ (Salvador Azuela) 、カルロス・サパタ・ヴェラ(Carlos Zapata Vela)、リカルド・ガルシア・ヴィジャロボス (Ricardo García Villalobos) などによってストライキ委員会の役員が構成された。これを受けてカストロ・レアル(Castro Leal) 総長は和解を提案した。また一方で、学生達は 幾つかの授業にも出席しないということを約束する契約書にサインしたりした。

大学側は11日、ストライキ勢力を抑えるためスト反対派を募った。学生達は彼らの主張の正当性をマニフェスタ運動を通じて表明し、学長が問題解決のために委員会設置するまで48時間与えるという最後通牒を出した。ポルテス・ヒル (Portes Gil) は、ゴメス・アリアス とアスエラ (Azuela) がヴァスコンセロス 派ということから、かなり政治色が強い運動ととらえていた。

5月16日、生徒達が新たに入学手続きをおこなうことを条件に法律学校再開を決定したが、誰もこれに応じるものはおらず、次の日には高校、中学も含め他の学校の学生や歯学部、医学部から学生が集められ、軍との武力衝突は避けられないものとなった。

大規模な学生運動が展開され、新たな抗争が生じ、負傷者も出た。教授の中には抑圧に反対することに抗議を表明し辞めていくものも何人かおり、ナルシソ・バソルス もまたその一人であった。ポルテス・ヒル は学生の審議の自由を保証するために大学内からの軍の撤退を命じた。

学生側は学長を含め教育にかかわるすべての役員と 首都圏警察長官の辞任を要求した。また、付属中学を再度国立高等学校付属とすること、大学評議会から選ばれた3人の候補者の中から学長を選ぶよう大統領に要求した。法学部の学生は23日負傷者に敬意を評し、この日を学生の日として、サントドミンゴ 広場を“5月23日広場“と改名した。

ポルテス・ヒル (Portes Gil) は学生たちに対談の場を設けることを提案した。28日の会議でポルテス・ヒル は大学自治に賛成であるということを表明したが、学生側から要求のあった教育機関などの責任者辞任に関しては否定的な態度を示した。6月1日大学評議会は大学自治を承認することを正式に発表し、 国会臨時総会ではこのテーマが取り上げられた。

4日、下院議会で自治大学の基盤決定に関し行政に権限を委譲し、また次の日の上院議会でも同様のことが行われた。ポルテス・ヒル は自治大学 組織法創設プロジェクトを立ち上げたが、ストライキ役員会ではこのプロジェクトに対する反対声明を公表し、カストロ・レアル 総長に辞任を迫った。

29日にストライキ役員会によって学生と教授との連盟が結成された。7月5日ストライキ委員会は大学自治法が承認されるならばストは終結すると発表した。最終的には同月10日この19項目の前文と、6つの章67の条項からなる(そのうちの12は 暫定的なもの)自治大学組織法が可決された。そして、翌日最後の役員会が開かれた。

ストライキが終わり、大学の各機関の活動も再開された。また、イグナシオ・ガルシア・テジェス (Ignacio García Téllez) が7月21日から8月1日まで臨時学長となった。26日に官報において、大学創設以来最大の団結力を示す自治大学 組織法が発表された。

こうして、ストライキは学生たちに大学の一員として自覚させ、また付属高校は学生が団結する要因の場となっていった。しかし、専門学校はこれらの学校から切り離され、独自の機関となっていった。

7月に起こった状況により、大学は公教育省の管轄ではなく大統領直轄の機関となり、これは大学職員と教員が大学創立以来長い間熱く望んでいた大学の自治であった。

こうした大学自治の動きは、今まであった二重性をなくし、大学としての機能を明確にした。これまであった伝統的な学校は建築・美術・彫刻学科を備えた美術学校としてとして統合された。科学・化学工学学校は国立化学科学学校になり、国立獣医学校はUNAMに統合された。

こうした機関改名によって、生物学や地質学など独自に調査・研究を中心にしていた研究所は大学に統合された。経営学科を取り入れた法学社会学科学部と同様にして、薬学学校も薬学部になった。こうして、1929年に現在の大学としての輪郭がはっきりしてきた。

8月、各学校長、各学部長、各研究所所長が任命された。大学臨時総長にはホセ・ロペス・リラ (José López Lira) が選ばれたが、この後イグナシオ・ガルシア・テジェス (Ignacio García Téllez) が再選された。

大学評議会は、大学が行う学習課程として以下を承認した:高等教育・科学修士・芸術修士・文学修士・哲学修士・科学博士・文学博士・芸術博士・哲学博士である。

大統領選挙のキャンペーンは活気あふれる大学生の参加によって盛大な盛り上がりを見せた。ゴメス・アリアス (Gómez Arias) やアスエラ (Azuela) など大学の自治獲得に向け 戦ったヴァスコンセロス 派のリーダーが参加していた。そして大統領選はPNR出身のパスクアル・オルティス・ルビオ (Pascual Ortiz Rubio) が当選した。

 

 


Defensoría de los Derechos Universitarios Portal de transparencia Teléfonos y medidas de emergencia
このwwwサイトの著作権はUNAMにあります。サイトの内容を無断で複写・複製することはできません。ただし、そしきに届け出ることにより変更可能です。情報源