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06/04/2013
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UNAMの歴史の記録 メキシコ国立自治大学歴代総長略伝



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1930年

2月5日、パスクアル・オルティス・ルビオ (Pascual Ortiz Rubio) 政権が発足した。また公教育省大臣はナルシソ・バソルス (Narciso Bassols) が任命された。大学はポルテス・ヒル (Portes Gil) に敬意を捧げた。モンテレイ (Monterrey) では第7回学生大会が開かれた。美術学校ではディエゴ・リヴェラ (Diego Rivera) に学長の辞任をせまり、新たにヴィセンテ・ロンバルド・トレダノ (Vicnte Lombardo Toledano) が任命された。

7月には大学予算について取り決める予算運営委員会規則が可決され、またこれによって大学都市建設予算が決定された。これを受けて大統領は、ロマス・デ・チャプルテペック (Lomas de Chapultepec) の土地の一部を購入することで合意した。

11月には教育者としての枠を明確にした大学教員採用規則が可決された。またさらに、12月には大学に出席できない学生に教育を教授することを目的とした大学外活動規則が承認された。この年はまた第一回学生イベロアメリカ大会が行われた。

1931年

哲学・文学部内には、生物科学専攻、哲学・文学専攻、物理数学専攻、科学専攻が設けられた。付属高校内に建築学、法学、医学、歯学、工学、理化学における中等教育修了専攻が設けられた。

この年より、大学入学の際には健康診断が義務付けられた。また総長は、政府からの助成金の削減に伴った大学の経済危機を回避するため、学費の引き上げを提案したが、認められなかった。

テワカン (Tehuacán) 水社などに代表される企業からの寄付金を大学は受けていた。事務総長で化学者だったロベルト・メデジン (Roberto Medellín) は各学校の合併についての規約を明らかにした。

1932年

「マキシマト (Maximato)」と呼ばれていたプルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) 将軍の政治への介入により、大統領府とカジェスの間の緊張感が高まっていった。そして、遂には同年9月、国会での大統領教書発表の後、オルティス・ルビオ(Ortiz Rubio)大統領は辞任を発表した。

代わってアベラルド・L・ロドリゲス (Abelardo L. Rodríguez) が大統領に任命された。大学総長にはロベルト・メデジン (Roberto Medellín) が選ばれ、付属高校の学長にはヴィセンテ・ロンブラド・トレダノ (Vicente Lombardo Toledano) が反対の声があったにもかかわらず任命された。

1933年

大学では新たな様々な法規が施行された。一方では学生自治組合法が可決され、また一方では学生の経済状態と成績に応じた奨学金制度が可決された。その他にも、大学図書館規則や大学監査法も可決された。

大学総長と事務総長の辞任が相次いでおこり、 また新たな危機が大学に訪れた。10月には 国家には大学を助成する義務が無いという新しい大学組織法(バソルス (Bassols) 法)が発表された。これは、大学の正式名称から「国立」という部分を抜き、「メキシコ自治大学」という名称とするためであった。

マヌエル・ゴメス・モリン (Manuel Gómez Morín) が臨時総長に選ばれ、11月に正式に総長に就任した。またこの年第一回メキシコ人大学生大会が行われた。

この大会で特に注目されたのが大学教育において、とくに高校教育課程で、資本主義体制を撲滅させ、自然哲学を基本とし、弁証法的唯物論の思想を教授することを支持する動きだった。これを受けてアントニオ・カソ (Antonio Caso) 総長は大会で、大学の教育概念はこれらの動きに左右されることなく絶対的自由の精神をを基本としなければならないという信念を主張した。

彼の論法を支持するため何度も議論が中断された。ヴィセンテ・ロンバルド・トレダノ (Vicnte Lombardo Toledano) は国会での議論を支援するため二回審議を中断させた。国会での審議はマスコミにも流れ、両者は激しく議論することになった。一方は、様々な哲学・思想の可能性を主張、もう一方は、マルクス主義こそ中心となる唯一の哲学となるべきだとした。

ゴメス・モリン (Gómez Morín) は大学法的機構についての見解を述べ、これは大学評議会で承認された。そこで、彼は、「自治」という言葉が意味するものと、どこまでが自治であるか、並びに大学と国家の関係に関し言及した。

1934年

ラサロ・カルデナス (Lázaro Cárdenas) 将軍はPNRから大統領候補として出馬した。マデロ (Madero) とオブレゴン (Obregón) だけがかつて行っていた選挙運動を展開したが、訪問地に関しては彼らの訪問数を上回ることになった。3月1日、メキシコ国立大学法が施行された。

生徒を選抜する為の入学試験制度並びに私立学校からの編入基準が制定された。また元大使のドゥワイト・モロー (Dwight Morrow) の遺産5万ドルが大学に寄付された。8月にはゴメス・モリン (Gómez Morín) 総長は 社会の支援を受けて、メキシコ自治大学を擁護すると発表した。これを受けて10月各研究機関がストライキに入った。

総長は辞任を表明したが当初は受け入れられず、その1ヶ月後認められ、代わりにエンリケ・アラゴン (Enrique Aragón) が臨時総長に任命された。11月26日には医者でもあり歴史学者でもあったフェルナンド・オカランサ (Fernando Ocaranza) が総長に任命された。また、この年ラサロ・カルデナス (Lázaro Cárdenas) が大統領に選ばれ、大統領の任期を2年延ばした1934年から1940年まで政権を握った。

大統領任期6年計画が議員たちによって提案された。また、社会主義的教育が提案されたが、そのためには憲法3条を改正しなければならなかった。この教育法をとることによって、教育者たちに「社会 生活に於ける理論的普遍概念」を教えようとした。

ダニエル・コシオ・ヴィジェガス (Daniel Cosío Villegas) によって経済を専門とした書籍を出版する文化経済出版社が設立された。

1935年

憲法新3条をめぐってアントニオ・カソ より新しい論争が起こった。前年末から翌年3月まで議論が続いていた。当初はマルクス主義に関し経済学者であるフランシスコ・サモラ (Francisco Zamora) と、後にはヴィセンテ・ロンバルド・トレダノ (Vicente Lombardo Toledano) とも新たに論議を展開した。この論争に関し首都圏のマスコミは4月まで報道を続けた。

この論争の根底は、社会主義的教育が大学も含め、全ての教育を代表するものでなければならないと の主張に対し、カソ (Caso) は学問の自由を主張した。また、付属高校の教育システムの見直しとして、3年の中等教育が確立する前の5年制度の高校教育に戻そうとした。

後に、3年の高等教育期間制度を廃止し教育期間を延長することが承認された。大学評議会は各研究機関の経済的危機のため、大学の活動を一時停止することを決定した。これを 法学部の学生たちは、国による教育の放棄と解釈した。

カルデナス (Cárdenas) 大統領は、大学は憲法に 則って調整されなければならないとし、大学組織法の改定を要請した。 教育の自由剥奪への脅威を前に大学教授たちは次々に辞任していった。

9月16日、オカランサ (Ocaranza) 総長が辞任し、代わりにバルビノ・ダヴァロス (Balbino Dávalos) が総長に任命されたが、一度もその役職につくことはなく、9月24日法学部長だったルイス・チコ・ゴエルネ (Luis Chico Goerne) が新たに総長に任命された。また、法学部、哲学・文学部、医学部、商学部、経営部、高等教育機関などいくつかの学部がその名前を「国立学校」と改称した。

美術学校は国立建築学校と国立造形学校に分かれた。後に美学研究所となる芸術研究所や大学内医療施設などが設立され、経済学校は独自の道を歩んでいった。

第3付属高校が設立された。各大学機関の学長が次々と替わった。学長顧問委員会で大学都市建設のための土地の売却が承認され、また大学に貢献した教授に対する給与未払い分返却に必要な予算も承認された。

1936年

4月10日、プルタルコ・エリアス・カジェス (Plutarco Elías Calles) 大統領とその側近たちが国外追放となり、これによってマキシマト (Maximato) 政権が終焉した。同時に国による国民のための機関が作られた。メキシコ労働総同盟(CTM)が作られ、事務局長にはヴィセンテ・ロンバルド・トレダノ (Vicente Lombardo Toledano)が選ばれた。

大学では次の年の予算案が承認された。入学手数料を10ペソとし、再試験料を5ペソとした。新しい大学関連規則が承認され、6月15日より施行された。新議会では芸術研究所を美学研究所とし、哲学・文学国立学校は再び学部となりその名称に高等教育が加えられた。

国立技師学校から国立工学学校となり、法学は法律学にもどり、数物理学部は、国立物理科学学校と国立数理学校に移行した。またこの年、大学シンフォニーオーケストラが結成された。

1937年

この年はストライキが多発し、この中のいくつかは石油産業にダメージを与えた。国際情勢としては、スペインの共和制を守るために、いくつかの援助団体が結成された。ダヴィッド・アルファロ・シケイロス (David Alfaro Siqueiros) やオクタヴィオ・パス (Octavio Paz) など多くのメキシコ人がこれに参加した。

カルデナス (Cárdenas) 大統領は国内の高等教育にいろんな選択肢を与えるため国立工科大学の設立を承認した。メキシコ学生連盟の中ではいろいろな論争があった。

大学ラジオ (Radio Universidad) の放送が始まった。主に国内の文化活動の紹介で、所長にはアレハンドロ・ゴメス・アリアス (Alejandro Gómez Arias) が就いたが、人事部の職務を自らが率いていた。

1938年

石油産業のストライキが日常化した。最高裁判所は外国企業の擁護を拒否し、3月18日カルデナス (Cárdenas) 大統領は国のために石油の国有化を決定した。これに賛成する大規模なデモが起こった。

5月サトゥルニノ・セディジョ (Saturnino Cedillo) が自分の領土内で政府に対して武力蜂起した。石油国有化賛成デモはチコ・ゴエルネ (Chico Goerne) 総長を筆頭に大多数の学生が参加した。

PNRはメキシコ革命党(PRM)に名称を変更した。同党は以下の4つの部門から成り立っていたことで特徴づけられている:農民・労働者・民衆・軍人部門である。始めの3部門は、メキシコ全国農民連盟、メキシコ労働者連盟CTM、メキシコ民衆組織連盟をそれぞれ組織していた。

国立高等教育審議会はメキシコ国内の高等教育奨励のためそれぞれ異なる地域に一つずつ計6つの教育センターを設立することを提案したが、チコ・ゴエルネ (Chico Goerne) 総長はこのプロジェクトに反対した。

このことにより、5月には大学に新たな危機感をもたらすことにより、結果的には、チコ・ゴエルネ 総長の辞任に繋がった。また、グスタヴォ・バス・プラダ (Gustavo Baz Prada) が新総長になるまで、役員会が大学内の一切の責任を引き受けた。スペイン市民戦争終結まで、メキシコにスペイン人支援施設が設けられた。

理学部の設立が承認された。そして、数理物理学学校はここに取り込まれることになった。文学・高等学校部はその名称から「高等学校」が削除され、文学部となった。物理学、数学、地理学の研究機関が設立された。これらは、全て新大学一般法に従ったものである。

1939年

元総長でもあり、旧政府閣僚でもあり、農業信用銀行の創設者でもあったマヌエル・ゴメス・モリン (Manuel Gómez Morín) は国民行動党 (PAN) を設立した。PRMは次期大統領候補として、国家防衛相だったマヌエル・アヴィラ・カマチョ (Manuel Ávila Camacho) を推薦した。

この時期の政治混乱は、混乱とまではいかなかったものの、大学内を揺り動かすものだった。スペイン市民戦争が終結にむかっていた。スペインからメキシコに亡命してくるスペイン人が後をたたなかった。中にはメキシコの文化に深く影響を与えた文化人も多くいた。彼らのほとんどが大学によって温かく迎えられた。

国立大学として学位取得発行登録の権限をめぐって問題が起こった。理学部が学部として機能し、国立獣医学校に畜産学が付け加えられた。大学内に印刷所ができ、、「大学生の図書館」 “Biblioteca del Estudiante Universitario” 雑誌の最初の何冊かができた。考古学・歴史学・民俗学国立博物館を基に国立人類歴史研究所ができた。


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