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06/04/2013
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UNAMの歴史の記録 メキシコ国立自治大学歴代総長略伝



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  • 1990

1940年

この年は選挙の年で、フアン・アンドリュー・アルマサン (Juan Andreu Almazán) が革命的国民統一党(PRUN)から大統領選への出馬を表明し、多くの支持者を集めた。またPANからはカルデナス (Cárdenas) 政権対抗者だったルイス・カブレラ (Luis Cabrera) が出馬したが、その直後これを辞退した。

このころからヨーロッパで戦争が激化し始めた。スペイン亡命者支援の家は解体し、その代わりにメキシコ国立大学院大学 (El Colegio de México)が設立された。スペインから亡命してきた教授たちはUNAMの支援を受けてさまざまな機関で高等教育に携わった。

国立法律学校の中で法律比較研究所が開設され、また同時期に哲学・文学部とは別に哲学学習センターが開設された。ç

学部長と学校長を選ぶ際の3人候補選挙制度が承認された。編入制度を扱うセクションは大学編入部門と学校編入部門とに分かれた。候補者の一人アルマサン (Almazán) は大統領選での自分の敗北を認めなかったが、アヴィラ・カマチョ (Ávila Camacho) の当選は誰しもが予測していたものだった。

しかし、公式な勝者はアヴィラ・カマチョ (Ávila Camacho) であり、12月1日アヴィラ (Ávila) 政権が発足した翌日、総長だったバスが辞任を表明したが、辞任ではなく休暇として受け入れられ、さらに名誉職とされた。最終的には衛生福祉相となった 。マリオ・デ・ラ・クエヴァ (Mario de la Cueva)が臨時総長の職を引き受けた。

1941年

ホセ・ヴァスコンセロス (José Vasconcelos) が帰国したことを受けて、それまでのアウレリノ・マンリケ (Aurelio Manrique) に代わってヴァスコンセロス が国立図書館の館長に任命された。国立経済学校の中に経済研究所が設立され、また新たに経済調査に関する雑誌も発行された。哲学・文学・歴史セクションが常に含まれた哲学文学雑誌が発行された。そこにはメキシコ人教授とスペイン人教授の論文や、翻訳された国際的に重要な記事が載せられた。

医学・生物学研究所が開設された。学業統合規則、成績換算規則、就業年次・学位相互認定規則が発表された。

これまでヨーロッパとアジアのみのだった戦争にハワイの真珠湾攻撃をきっかけにアメリカが第二次世界大戦に参加することを表明した。メキシコは日・独・伊に対して反対姿勢を示した。

1942年

アヴィラ・カマチョ (Ávila Camacho) による国家統一方針は亡命先からすでに帰国していた歴代大統領も出席の中、メキシオ市中央広場で大々的に発表された。

6月19日大学総長にロドゥルフォ・ブリト・フシェル (Rodulfo Brito Foucher) が、事務総長にアルフォンソ・ノリエガ・カントゥ (Alfonso Noriega Cantú) が選ばれた。大学都市建設の要求の声が高まる中、大学評議会員選出のための規則が作られた。

1943年

学士院が大統領の命によって設立され、また多くの優秀な学生がこの設立に携わった。ジャーナリズム専攻が設置された。大学都市はサン・アンヘル (San Ángel) 付近に設立されることになった。

総長は4つの科学調査部門を設ける決定をした。また、一番重要な出来事としては学科教授の身分枠(待遇)を明確にする規則が設けられたことである。

1944年

大学 一般法改正が行われたが、特に大きな問題もなく半年がすぎた。しかしその後、大学側と学生の間で抗争が起こった。ブリト・フシェル (Brito Foucher) は辞任を表明し、7月29日にマヌエル・グアル・ヴィタル (Manuel Gual Vidal) 、オクタヴィオ・メデジン・オストス (Octavio Medellín Ostos) 、ラウル・セルヴァンテス・アウマダ (Raúl Cervantes Ahumada) の3名が役員会構成員として指名された。

アヴィラ・カマチョ (Ávila camacho) 大統領による国会に提出すべく、大学 組織法を改定するプロジェクトのための大学評議会が行われた。

歴代総長たちによる会議では、大学の一時的運営についての土台が決定された。高校を中心に勃発し、最終的には総長の辞任までももたらした大学の紛争は、8月14日にアルフォンソ・カソ (Alfonso Caso) が学長に選出されることで結末を迎えた。

9月30日に開催された国会で、大学組織法が承認され、12月30日大統領によって正式に署名された。この規則施行までの期間、大学評議会は各機関が正常に機能するよう1942年発行の大学組織法の適用を許可した。

10月23日に行われた大学評議会のセッションでは、アレハンドロ・キハノ (Alejandro Quijano) やロベルト・カサス・アラトゥリステ (Roberto Casas Alatriste) 、エヴァリスト・アライサ (Evaristo Araiza) など 大学後援会の初期構成メンバーが紹介された。

このようにして、哲学・文学部の中に心理学部、人文学部、科学調査部など現事務局の前身ともいえる基礎が創られた。テキサス (Texas) 州サン・アントニオ (San Antonio) 夏期学校には 2000人の学生がいたが、そこにメキシコ文化を教えるためのの教授団体が送りこまれた。この学校はサン・アントニオ・ヴォカシオナル・スクール (San Antonio Vocational School) でした。

1945年

1月6日、官報に大学組織法の全文が掲載された。そこには15名の有力者、後援会理事からなる役員会議を設けること、また、総長と大学評議会に絶対権力を与えること、それから学校、学部、研究機関の学長の権限について明記されていた。この大学組織法から、新大学一般法の要約がなされた。

最初の役員会議は次のメンバーだった:アントニオ・カソ (Antonio Caso)、マヌエル・ゴメス・モリン (Manuel Gómez Morín)、フェルナンド・オカランサ (Fernando Ocaranza)、そして元総長のマヌエル・サンドヴァル・ヴァジャルタ (Manuel Sandoval Vallarta)、イグナシオ・チャヴェス (Ignacio Chávez)、マリアノ・エルナンデス (Mariano Hernández)、ヘスス・シルヴァ・ヘルソグ (Jesús Silva Herzog)、マヌエル・マルティネス・バエス (Manuel Martínez Báez)、アブラム・アヤラ・ゴンサレス (Abraham Ayala González)、フェデリコ・マリスカル (Federico Mariscal)、アルフォンソ・レジェス (Alfonso Reyes)、リカルド・カトゥレグリ (Ricardo Caturegli)、ホセ・トレス・トリハ (José Torres Torija)、ガビノ・フラガ(Gabino Fraga)、アレハンドロ・キハノ (Alejandro Quijano)だった。

アントニオ・カソ (Antonio Caso) は校長指名を辞退しため、代わりにマリオ・デ・ラ・クエヴァ (Mario de la Cueva) が引き受けた。3月には論議が終結し、新しい法規が承認された。歴史研究所が設立された。また、国立看護学校は医学学校から切り離された。

同月24日に国際派で小説家でもあったヘナロ・フェルナンデス・マクグレゴル (Genaro Fernández MacGrégor) が総長に選ばれた。現場の声を参考に各機関の所長などに参加を呼びかけ、人文学部と科学学部との調整機関を設けた。この頃の国際情勢としては、ドイツの敗北から第二次世界大戦も終焉に近づきつつあった。

8月、日本に2つの原子爆弾が投下された。アメリカとソ連という2つの対極的軍事力が生まれ、新しい国際関係が始まった。

国連が発足し、メキシコは設立時からメンバーとなっている。PRMから内務相だったミゲル・アレマン・ヴァルデス (Miguel Alemán Valdés) が大統領候補に指名され、外務大臣であったエセキエル・パディジャ (Ezequiel Padilla)がそれに対抗して独自に出馬した。

投票日が近づくにつれ選挙戦は激しくなった。大学では学科教授のための規則やその他の 新法規に関連し教授が受けなければならないコンクールなどに関し議論された。

この年の 大晦日、大学都市の創設と建設法プロジェクトが承認された。国立科学・芸術賞が設けられたことが官報に掲載された。

1946年

大統領の座をめぐってミゲル・アレマン (Miguel Alemán) とエセキエル・パディジャ (Ezequiel Padilla) の選挙戦が繰り広げられた。PRMは名称を制度的革命党 (PRI) と変更した。エセキエル (Ezequiel) には多くの支持者がいたにもかかわらず、ミゲル・アレマン (Miguel Alemán) の勝利となった。憲法第3条が改正された。

社会主義的教育は衰退していった。ミゲル・アレマン が大統領に就任した 年末、特に強調したのがメキシコ革命後(ポルテス・ヒル Portes Gil は例外として)初の民間大統領だということだった。また、初のUNAM出身大統領が生まれたのである。

国立高等学校20−24年度の卒業生であり、同期には、アレハンドロ・ゴメス・アリアス (Alejandro Gómez Arias) やフリーダ・カーロ (Frida Kahlo) など様々な分野で活躍したメキシコ人がいる。

国立美術・文学学校が設立された。

アントニオ・カソ (Antonio Caso) は大学の名誉教授に選ばれた年に亡くなった。1930年フリオ・ヒメネス・ルエダ (Julio Jiménez Rueda) のもと、メキシコ大学雑誌が以前と同じ名前で再び発行された。ヘナロ・フェルナンド・マクグレゴル (Genaro Ferdández MacGregór) 総長に反対する動きが見られるようになり、フェルナンデス (Fernández) 総長は辞任を表明した。彼の代わりにサルヴァドール・スビラン・アンチョンド (Salvador Zubirán Anchondo) が3月4日総長に任命された。

4月6日の官報に大学都市創設と建設法が掲載された。9月の官報には大学建設に向けてペドレガル・デ・サン・アンヘル (Pedregal de San Ángel) 地区の土地を接収することを発表された。

8月30日に学科教授・学科研究員・退職教授と退職職員・また大学院など大学院制度を設けているすべての学科について、大学一般規則の変更が行われた。ただしその変更のもとでは機能することはなかった。

大学は、マヌエル・M・ポンセ (Manuel M Ponce) を国立音楽学校の終身校長に、そして、イサアク・オチョテレナ (Isaac Ochoterena) を生物学研究所、エセキエル・オルドニェス (Ezequiel Ordóñez) を地質学研究所、ホアキン・ガジョ (Joaquín Gallo) を宇宙観測所の名誉調査員並びに名誉所長としてそれぞれ任命した。

1947年

新たな機関が設立され、また今まであった機関も再編成されたりした。夏期学校も組み込まれていた 学術研究並びに文化普及総局の創設は注目を集めた。教務部が教務総局となった。人事部は事務局長直属の事務局にランクアップされた。

リカルド・モンへス・ロペス (Ricardo Monges López) が理学部名誉部長に任命された。

1948年の学費に関する規約が承認され、入学登録費として25ペソ、そして授業料として80ペソ~200ペソとされた。入学再試験料金は10ペソだった。メキシコの政治情勢には特に大きな動きは無かったが、国際情勢は、ヨーロッパで戦後の復旧活動が行われている真最中だった。

1948年

メキシコ政府は1ドルに対して8.65ペソとペソ切り下げの決定をした。左派グループはヴィセンテ・ロンバルド・トレダノ (Vicente Lombardo Toledano) とナルシソ・バソルス (Narciso Bassols) の呼びかけに応じて新たに国民党を結成した。比較法律研究所は自治権を獲得した。

学生運動の結果、スビラン (Zubirán) 総長は辞任を余儀なくされた。6月1日、アルフォンソ・オチョア・ラヴィセ (Alfonso Ochoa Ravizé) が代理総長を務めた後、ルイス・ガリド (Luis Garrido) が総長に選ばれた。

学費見直し会議で入学登録費が25ペソから20ペソに、授業料が80ペソ~200ペソから65ペソ~180ペソに、 追試験料が6ペソに下げられた。

1949年
この年の総学生数は2万3千192人(新入生が6千487人)で、そのうち男子学生が1万9千242人、女子学生が3千950人だった。 。大学評議会規則が承認され、ラテンアメリカ大学連合が結成された。

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