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06/04/2013
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UNAMの歴史の記録 メキシコ国立自治大学歴代総長略伝



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1960年

1959年大晦日、キューバ革命の勝利を受け、帝国主義反対という新しい動きが広まった。この動きはラテンアメリカにさまざまな影響を及ぼした。この年メキシコ政府は革命軍によるメキシコ革命50周年と反乱150周年の記念式典を行った。

9月27日、国内電力を国有化した。ロペス・マテオス (López Mateos) 大統領は、前政権では行われなかった各国視察訪問や外国の大臣を招待したりして、色々な国との関係を強化し、より強い自治を強調することで、革新的な対外政策を打ち出した。UNAMでは文学研究センターやフィルムライブラリーや医療センターなどが設立された。メキシコ市中心街のグアテマラ (Guatemala) 通りに第7付属高校が設立された。

カリジョ・フロレス (Carrillo Flores) 総長の任期が終わり、大学内ではこの継承問題が大きく取り上げられたが、役員会議でイグナシオ・チャヴェス (Ignacio Chávez) が総長 に選ばれた。

1961年

2月13日イグナシオ・チャヴェス (Ignacio Chávez) が総長に、ロベルト・L・マンティージャ・モリナ (Roberto L. Mantilla Molina) が事務総長に選ばれた。この直後、授業日数を増やすことが決定された。

大学ラジオ (Radio Universidad) が文化普及総局に取り込まれた。ペリキジョ・サルニエント (Periquillo Sarniento) を上映したコアパ (Coapa) 劇場はまたもやハヴィエル・ヴィジャウルティア (Xavier Villaurrutia) 賞を受賞した。大学構内試験についての規則が施行された。

通常試験の受験資格は最低65%の出席率が必要とされ、また臨時試験の場合は50%が要求された。国立付属高校卒業者にも大学入学試験が課せられた。

この年の在学学生総数は6万6千879人に増え、そのうち男子学生は5万5千426人、女子学生は1万1千444人だった。新入学生は2万2千455人だった。大学評議委員会運営基盤が創られた。

1962年

ロペス・マテオス (López Mateos) 外交政治はますます強化され、ジョン・F・ケネディ (John F. Kennedy) がメキシコを訪問した。また、第3世界という名称がはじめて使われたバンドン (Bandung) 会議で頭角を現したインドネシアのアウメド・スカルノ (Ahmed Sukarno) 大統領もメキシコを訪れた。

政府に古くから直結していた人物、反体勢力、知識人などが所属し、選挙活動を目的としない政治組織である国の自由主義運動が力を持つようになっていった。

キューバは米州機構(OEA)から孤立したが、メキシコは引き続き外交を維持した。しかし10月ソ連の核兵器基地がキューバに設置されたことにアメリカが抗議して世界に緊張が走った。

コヨアカン (Coyoacán) にあったミエル・イ・ペサド (Mier y Pesado) 会社の所有地を買い取り、第6付属高校の新しい校舎を建設した。大学構内サービス研究員規則が承認された。

このようにして、UNAM一般法改正プロジェクトが 承認された。大学法律総局と総長職秘書課が設けられた。1960年に創立した国家公務員向け安全サービス機関(ISSSTE)へのUNAM職員加入という総長の要求が承認された。

大学ギャラリー「アリストス (Aristos)」がインスルヘンテス (Insurgentes) 通りに創られた。 大学のサッカークラブが、メキシコプロサッカーの一部リーグに昇格した。

1963年

大学運営改革と大学付属新機関創設の動きによって、大学映画研究センター(CUEC)や世界的にも有名な人類学者ペドロ・ボッシュ・ギンペラ (Pedro Bosch Gimpera)、マウリシオ・スワデッシュ (Mauricio Swadesh)、ポール・キルチョフ (Paul Kirchoff)、フアン・コマス (Juan Comas)、エドワルド・ノゲラ (Eduardo Noguera)、サンティアゴ・ヘノヴェス (Santiago Genovés) などが所属する人類学歴史調査機関セクションが設立された。

理学部の一階に他の職員部門を統括する大学運営総局が設置された。大学法律総局は大学法律研究総局と名称を改めた。

教職員の大学サービスに関する処遇が確立された。フランスのシャルス・ド・ゴール (Charles de Gaulle) 大統領はメキシコ訪問の際UNAMを訪れ、フスト・シエラ (Justo Sierra) 講堂で行われた式典に出席した。また他にも旧ユーゴスラビアの陸軍元帥ヨシップ・ブロズ・ティトー (Josip Broz, Tito) やベネズエラのロムロ・ベタンコート (Rómulo Betancourt) などもメキシコを訪問した。

内務相だったグスタヴォ・ディアス・オルダス (Gustavo Dìaz Ordaz) がPRIから大統領候補に任命された。

1964年

総長は、学位単位を取得していないUNAM教職員に対しその状況を改善し単位を取得する為の期間を制定した。この期間の哲学・文学部などのように卒業論文が必須では無かった学部への卒業試験申し込み数は膨大なものとなった。

哲学・文学部の教授でもあり作家でもあったロサリオ・カステジャノス(Rosario Castellanos) 率いる刊行物出版部門は情報・出版総局と名称を改めた。情報処理部門が設立された。

国立高等学校の進学業プランが承認され、これより先の高等教育学習期間が3年と定められた。学習大統領は第4、第6、第7国立 高校のタクバヤ (Tacubaya)、コヨアカン (Coyoacán)、ラ・ヴィガ (La viga)の新施設開設の除幕式に出席した。

フアン・イバニェス (Juan Ibáñez) による「ラモン・デル・ヴァジェ・インクラン (Ramón del Valle Inclán)の崇高な言葉」という作品がフランスのナンシー (Nancy) 市で行われた演劇国際フェスティバルで1位に輝いた。

最初の教師労働 組合(SPUNAM)が発足した。事務総長 にフェリックス・バラ・ガルシア (Félix Barra García) が任命された。

12月1日、PANのホセ・ゴンサレス・トレス (José González Torres)を除いて実質的には他の候補者もなく、グスタヴォ・ディアス・オルダス (Gustavo Díaz Ordaz) が大統領となった。

1965年

イグナシオ・チャヴェス (Ignacio Chávez)が更に4年の任期延長を条件に総長に選ばれた。後の学部の前身でもある理化学学校高等商業・経営高等学校法規が制定され、学部に昇格した。

チャヴェス (Chávez) 総長はミスコアック (Mixcoac)に第8、インスルヘンテス (Insurgentes) 北に第9国立高等高校を新たに設立した。職員のUNAM施設使用に関する規則が承認された。また定年退職した教員には名誉教授の地位を与えることが出来ないということで合意した。

出版総局から文化普及部門が独立し、健康センターは医療サービス局となった。この年の半ばに医療関係者たちによるストライキが起こされた。ストライキの期間中医療サービスは停止され、宿直医や実習医の待遇改善を求めた。この運動は厳しく取り締まられた。

1966年

法学部の学部長、セサル・セプルヴェダ (César Sepúlveda)が行った大学内部試験規約改正に反対を表明した。当時の事務総長で弁護士でもあったマンティジャ・モリナ (Mantilla Molina) はセプルヴェダ (Sepúlveda) 学部長を支援した。

こういった動きは法学部だけにとどまらず、他の学部をも取り込んで大きな運動となり、最終的には行われなかったが、ストをも辞さない勢いに、最終的に学生の目標は達成された。4月26日学生は総長のいる建物を占拠して、総長に有無を言わせず強引に辞任を迫った。役員会はこの辞任を認めなかった。

イグナシオ・チャヴェス (Ignacio Chávez) 総長への支持を表明するために多くの教員が辞任した。大学は機能不全に陥り、5月の初めチャヴェス (Chávez) 総長は自宅から再度辞任を表明した。役員会は新たに元工学学校の教師でもあり、またアドルフォ・ロペス・マテオス (Adolfo López Mateos) 政権の公共事業相だったハヴィエル・バロス・シエラ (Javier Barros Sierra) を総長に任命した。

UNAM事務総長には国務運営を大学で学んだフェルナンド・ソラナ (Fernando Solana) を任命。教授達が次々と辞任する中、哲学・文学部長だったホセ・ガオス (José Gaos) 名誉教授は、チャヴェス (Chávez) 元学長との連帯感を示す為、教授の地位に留まった。

学業運営委員会と教師総局が設置された。サン・ニコラス・デ・イダルゴ・ミチョアカン (San Nicolás de Hidalgo) 大学では大学側と地方政府との間で対立が起こり、それによりエリ・デ・ゴルタリ (Elí de Gortari) 総長が辞任した。

バロス・シエラ総長は自治大学に関しての声明を発表した。国立高等学校から大学への入学試験免除に関する規則が承認された。

伝統的な10段階評価に替わり、新しい評価表現として「単位取得出来ず(NA)」「十分(S)」「よい(B)」「非常によい(MB)」とされた。

卒業試験の判断基準が改定され、判断基準は:不合格・合格・優秀の三段階のみとされた。特別講座事務所、ソーシャルサービス事務所、文化交流事務所などのいくつかの事務所は局となった。

古典言語の翻訳センタ-と外国語教育センター Centro de Enseñanza de Lenguas Extranjeras (CELE)が設立された。同時に新教授法研究務所が設立された。

 

1967年

この年の在籍学生総人数は8万6千805人だった。新入学者数は2万3千230人だった。教職員規約の条項が改正され、研究員によるUNAM施設サービスについての規則も改正され、規約から定款に変更された。

大学に於ける高等教育一般法が承認された。またこれに関連して、博士課程委員会が大学卒業後学習委員会になった。

社会政治科学学部内の国際関係学、国務運営学、政治科学、社会学における修士課程学習新プランが作られた。また化学学部では化学工学、核化学、核化学工学、薬品コントロール及び薬品生産産業経営学における修士課程が設置され、商学・経営部では企業経営学科が設置された。

建築学部では工業デザイン学科ができた。また次々と新しい機関が設立されていった。イスパノ言語学センター、核研究所、図書館と定期刊行物図書館の管理をする書誌学研究所、国立宇宙観測所に従事する宇宙研究所、生物研究所に属する海洋・湖沼研究部門、学業学歴換算局、在庫管理・備品購入局などが設立された。

経済調査機関は経済国立学校から独立した。哲学研究センターは哲学研究調査研究所になり、医療生物研究所は生物医学調査研究所に、比較法律研究所は法律調査研究所になった。

体育総局はスポーツ活動総局となった。文化関係・交流部門は文化・学術交流総局になった。人事事務所は総局になった。

情報・定期刊行物事務所は情報・交換事務所になり、ソーシャルサービス部門は職業教育・ソーシャルサービス総局となった。図書館技師部門は図書館総局になった。

1968年

大学運営業務の規則改革と、先送りされていた政治・社会科学国立学校の学部への転換を実行にうつした。

他の学部も同様だが、短期の学科たとえば 市町村運営技術学科、 観光技術学科、輸出 方針技術学科などにはあまり重要視されなかった。建築学は独自に都市開発修士課程と記念建造物 修復修士課程を設立させた。歯科学部では歯列矯正分野と歯列固定分野を設立した。

国立高等学校ではこれまで番号だけでその区別をしていたが、この年2月3日より、大学に偉大な業績を残した者の名前がその番号に 加えて付けられた。1ガビーノ・バレダ (Gabino Barreda)、2エラスモ・カステジャノス・キント (Erasmo Castellanos Quinto)、3フスト・シエラ (Justo Sierra)、4ヴィダル・カスタニェダ・イ・ナヘラ (Vidal Castañeda y Nájera)、5ホセ・ヴァスコンセロス (José Vasconcelos)、6アントニオ・カソ (Antonio Caso)、7エセキエル・A・チャヴェス (Ezequiel A. Chávez)、8ミゲル・E・シュルツ (Miguel E. Schultz) と9ペドロ・デ・アルバ (Pedro de Alba)であった。各高校に彼らの胸像が置かれた。

前年から国立付属高校に入れなかった学生たちの間で国民高校同盟が結成された。彼らは哲学・文学部の使われていない教室や建物の奥にある階段でボランティアで教えていた教師による授業を受けていた。

2月に総長によってこの国民高校同盟が認められ、UNAMの所有する建物で使われていなかった建物が提供された。旧商学部の校舎、リヴェルプール (Liverpool) 通りの経営学校、タクバ (Tacuba) の理化学学校など後に大学都市校内に移されたが、最近まで最初の学年の幾つかのグループにはそこで授業が行われていた。

7月22日シウダデラ (Ciudadela) でIPNの国立工科大学付属第2職業教育学生とイサアク・オチョテレナ (Isaac Ochoterena) 私立高校の学生との間で対立があり、翌日UNAM大学付属高校の学生達は報復のため職業教育学生に投石をした。

26日キューバ革命を記念してデモを行っていた学生達は、第2職業教育学生と大学附属高校の学生との対立への警察による介入の抗議デモを行っていた国立連邦技術学生 Federación Nacional de Estudiantes Técnicos(FNET)と対立した。このデモは警察によって 激しく撤収させられた。

その後、警察と学生との抗争があった。29日警察と軍はメキシコ市の中心にあった国立高校とIPNを包囲した。バズーカによる発砲で第一付属高校のコロニアル調の扉が壊された。

翌日警察と学生との抗争があった。29日警察と軍はメキシコ市中心にあった国立高校とIPNを包囲した。バズーカによる発砲で第1付属高校のコロニアル調の扉が壊された。

第1、第2、第3、第4、第5国立高等学校が軍によって占拠されたが、後に第1、第2、第3高校のみはUNAMに返還された。7月30日、大学都市では、バロス・シエラ (Barros Sierra) 総長が国旗を半旗で掲揚し、喪に服していることを表明する意味からもUNAMラジオ放送を早く切り上げた。

8月1日、バロス・シエラ (Barros Sierra) 総長は、政府に対して意思表示するため、大学都市を出て、インスルヘンテス (Insurgentes) 通りを通ってフェリックス・クエヴァス (Féliz Cuevas) 通りでコヨアカン (Coyoacán) 通りへ向けて曲がり、ウニヴェルシダッ (Universidad) 通りを通って大学までかえるというデモを 指揮した。

ディアス・オルダス (Díaz Ordaz) 大統領はグアダラハラ (Guadalajara) で声明文を出し、手を繋ごうという者に対しては誰に対しても「手を広げ歓迎する」と表明した。

翌日国家ストライキ審議会(CNH)が結成された。8月5日、類似の学生デモがサカテンコ (Zacatenco) から出発してサント・トマス (Santo Tómas) まで起こった。UNAMは政治科学学部を除くすべての学校及び学部を閉鎖することを決定した。

8月13日、人類学博物館から中央広場まで第一回学生デモが行われた。この学生運動は6つの要求を掲げるものだった。そのひとつは警察長官クエト・ラミレス (Cueto Ramírez) と副長官メンディオレア・セレセロ (Mendiolea Cerecero) それぞれの辞任を求めるものだった。また社会崩壊の責任を問う罰則である刑法145条並びに145—2条の廃止を求めた。

大学 評議会も学生と同じような8つの要求をした。国立音楽院の学生と 教員育成高等学校の学生もこれに参加した。CNHはFNETが学生を代表する組織では無いと発表した。8月22日政府は学生の代表者と話し合う意思があると表明した。

教員と学生は新聞記者、ラジオ局、テレビ局の立会いの下という条件でこの申し出を受け入れた。

27日、人類学博物館から中央広場まで学生デモが行われ、赤と黒の旗を広場に半旗で掲げたが、その後、その旗は降ろされた。明け方には学生達は強制的に立ち退かされた。

翌日、国のサービスを行う職員が参加していたセレモニーで、国旗を冒涜する行為 が行われた。公的圧力との新しい対立が起こった。軍は大学都市とサカテンコ (Zacatenco) を占拠し、9月1日大統領は武力によって学生運動を抑圧すると脅迫した。

7日、トラテロルコ (Tlatelolco) でこれらの学生運動を祝う集会があり、その2日後UNAMの総長は、 本来の目的を見失うこと無く大学を通常通り運営することを通達した。これに対していろいろな意見が出た。9月13日、レフォルマ (Reforma) 通りで沈黙デモが行われた。

国民グループは集会を開き、9月18日軍は大学都市を占拠した。何人かの逮捕者が出た。それでも大学の運営・調査活動や幾つかの文化普及活動は中断されることなく、教育活動だけが中断された。

9月19日、総長は12日間の軍の占拠に抗議した。下院議会ではルイス・ファリアス (Luis Farías) 下院議長がバロス・シエラ (Barros Sierra) 総長を非難した。総長は辞任を表明したが認められなかった。役員会はバロス・シエラ (Barros Sierra) 総長に大学に残るように頼んだ。

10月1日、調査機関と運営機関そして一部の文化普及活動が再開された。CNHは学校のストライキを続けることを表明した。 翌日10月2日トラテロルコ (Tlatelolco) の三文化広場で再び集会が行われた。

ひとつの強い光がCNHの本部があったと言われていたチワワ (Chihuahua) ビルめがけて炸裂した。それとほぼ同時に、集会にいた学生たちに向けて銃弾が浴びせられた。この事件は多くの死傷者や逮捕者を出した。CNHは政府の抑圧に屈することなくこの運動を続けることを表明したが、既にその頃には、多くの幹部が政府によって逮捕されていた。

10月12日、大学都市で第19回オリンピック国際陸上競技大会が開催された。このため大学は一時休学となった。閉会式の後、大学は通常通り運営された。教員、学生の間で多くの逮捕者が出た。

学生ストライキは12月4日をもって公式に終結した。 総長は12月20日に行われた大学 評議会による信任案決議を拒否した。生物学、数学、物理そして地質学における修士課程と博士課程、そして地球物理学における修士課程の学業プランが認可された。

また、絵画学科、彫刻学科、製版学科の学業課程プランも認可された。同様にして、陸上交通機関専門コース、衛生工学の学業課程プラン、制御・出力専門工学の修士課程プラン、オペレーション調査学の修士課程と博士課程プラン、鉱業物理工学の修士課程プラン、デザイン専門コースプラン、都市灌漑用水・排水設備建設専門コースプランなども認可された。

最後に大学側の学生運動に関する要求の報告書も承認された。

1969年

総長は大学の学業活動及び文化活動をすぐに通常に戻した。大学評議会によって25周年、35周年、50周年学業・研究奉仕記念の証書の授与が承認された。

政治社会科学学部による学位取得証書の名称が決定され、学位取得中のソーシャルワークプランも決定された。医学部では新たに労働医療、薬物学修士課程、免疫臨床医学専門分野、アレルギー専門分野などの高等研究分野専門コースが確立された。

建築学部ではプレハブ建築や工業建築の専門コースが設置された。医療サービス局は医療サービス総局となり、畜産・獣医学学校は学部として登録された。

9月の大統領教書発表で、グスタヴォ・ディアス・オルダス (Gustavo Díaz Ordaz) は前年の民衆との衝突並びに本年度の学生と警察との衝突事件について全責任をとることを表明した。 ルイス・ゴンサレス・デ・アルバ (Luis González de Alba)、ヒルベルト・ゲヴァラ・ニエブラ (Gilberto Guevara Niebla)、トマス・セルヴァンテス・カベサ・デ・ヴァカ (Tomás Cervantes Cabeza de Vaca)、ソクラテス・カンポス・レムス (Sócrates Campos Lemus) などの学生運動リーダーや、 ファウスト・トレホ (Fausto Trejo)、エベルト・カスティジョ (Heberto Castillo)、エリ・デ・ゴルタリ (Elí de Gortari)、ホセ・レヴゥエルタス (José Revueltas) などの教職員 の拘留は続いていた。

次の大統領は選挙選では熱心な選挙運動を展開していた内務大臣ルイス・エチェヴェリア・アルヴァレス (Luis Echeverría Álvarez) が当選した。

医学部における遺伝子医学専門コース、病理学修士課程、病理学博士課程、化学学部における生物化学修士課程、生物化学博士課程、水力工学専門コースなど学位取得後の学習コースとして新たなプログラムや講座などが大学評議会で承認された。

法学部では刑事科学法の専門家養成コース、公共財生専門養成コース、社会法学専門養成コース、民法専門養成コース、憲法学専門養成コース、商法専門養成コースなどが設置された。獣医学部では鳥畜産学専門コース、獣医学修士課程、獣医科学博士課程などが設置された。


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