Ir a página principal
06/04/2013
FAQs Dudas y comentarios Sitemap
Directorio UNAM Sitios Web en la UNAM podcast UNAM webcast UNAM TV educativa correo UNAM canal de la unam en youtube twitter de la UNAM Facebook de la UNAM Gaceta de la UNAM
Sitio Web personal
Compartir
EspañolInglésFrancésAlemánChino
大学運営委員会
UNAMに関する法律
UNAM電話案内
時代の流れの中のUNAM
UNAMとは
2008年度UNAM統計
機関組織


時代の流れの中のUNAM

UNAMの歴史の記録 メキシコ国立自治大学歴代総長略伝



  • 1910

  • 1920

  • 1930

  • 1940

  • 1950

  • 1960

  • 1970

  • 1980

  • 1990

1970年

教育センター、外国語教育センター、音楽入門センター、大学映画研究センターなどの大学管轄センター規則が承認された。

ハヴィエル・バロス・シエラ (Javier Barros Sierra) 総長の任期が終わり、5月2日、パブロ・ゴンサレス・カサノヴァ (Pablo González Casanova) が総長に選ばれた。事務総長に化学者であるマヌエル・マドラソ・ガラメンディ (Manuel Madrazo Garamendi) が任命された。在籍学生総数は1969年から10万人を超え、この年は10万7千56人で、新入学総数は3万465人だった。

女子学生は2万3千879人に増えた。政治犯及び学生犯の釈放を要求する総長による嘆願書が承認された。大学職員新規約は教授と研究員の統一をはかった。

マヤ研究センターと応用・システムサービス数学研究センターが新しく大学管轄センターの一つとなった。文化普及部門の中ではグロリア・コントレラス (Gloria Contreras) がUNAM主催舞踏講座を開設した。12月1日、ルイス・エチェヴェリア・アルヴァレス (Luis Echeverría Álvarez) が大統領に就任。同月、大統領の命により国立科学技術庁が設けられた。

 

1971年

大学評議会は1月25日、科学・人文学校 Colegio de Ciencias y Humanidades (CCH) の創設と、高等教育課程の学業単位に関する規則を承認した。

教育センターでは各分野で新教授法を確立し、メキシコ教育界に貢献していた専門家と教育学者による講座が開設されると共に教授陣の選択も行った。

アスカポツァルコ (Azcapotzalco) とナウカルパン (Naucalpan) とヴァジェホ (Vallejo) に新たに分校が設立され5月から授業が開始された。これによって、学生の数が増加した。学校長・学部長の組合が組織され、その規則が承認された。測定センターと科学・人文情報センターが創られた。

5月の終わり頃、ヌエヴォ・レオン (Nuevo León) 州で州政府と州立自治大学との間で対立があった。ヌエヴォ・レオン (Nuevo León) の学生自治会はメキシコ政府に助けをもとめた。メキシコ市ではUNAM とIPNの学生が援助要求に応じた。このような混乱は6月の初めごろまで続いた。

ヌエヴォ・レオン (Nuevo León) での事態はさらに深刻になり、6月10日木曜日にサント・トマス(Santo Tomás) に隣接するリベラ・デ・サン・コスメ (Ribera de San Cosme)で大規模なデモが行われることになった。エリソンド (Elizondo) 州知事が辞任を表明したにも関わらず、デモは決行されることとなった。

まだデモが始まっていないにもかかわらず、軍隊をまねた「ロス・アルコネス (Los halcones)(鷹)」というグループによって学生が攻撃された。警察はインスルヘンテス (Insurgentes) 地区北部とマヌエル・ゴンサレス (Manuel González) 地区に警戒線を引いた。この事件について誰も責任を取らず、「ロス・アルコネス (Los Halcones)」というグループの存在も否定された。

この直後フローレス・クリエル (Flores Curiel) 警察庁長官とメキシコ市長が辞任を表明した。しかし、この事件の責任者については結局明らかにされず、多くの若い犠牲者を出したという事実だけが残った。後の政治危機は、「エチェヴェリア (Echeverría) 大統領か?ファシズムか?」という二者択一を提案した有力者たちの支援もあって 、彼の政策や政治のスタイルが少しずつ過激な者への発展していった。

国際情勢は一つの独立体形成の可能性に向かっており、第3世界が強くなってきていた。メキシコ国内では大衆運動が再び生まれ、1968年に逮捕・拘留されていた政治犯が釈放され、釈放後何人かは政府に協力を要請された。

大学の予算助成金は膨大なものとなり、UNAMではCCHがその良い見本であった。学生数が増加してきたのは事実である。また一方で、中等・高等教育のための公共施設が開設された。

8月15日歴代総長の中でも偉大な一人であったハヴィエル・バロス・シエラ (Javier Barros Sierra) 総長が亡くなった。11月UNAM労働・職員組合(STEUNAM)が結成され、職権登録の要求をした。

当局と大学職員の大部分がUNAMで締結されている団体契約で専業を規定しているが、これは、自治大学の名を傷つけるものであるとして契約に拒否するものもいた。

運営上の変更がいくつかあった。学生サービス総局が学生運営調整部なり、職員総局、教授総局が無くなり、大学運営職員総局として一つにまとめられた。最後に大学プロジェクト導入技術委員会が設立された。

1972年

この年は大学にとっていろんな問題が浮上した。大学学業運営においてはUNAMの映画上映規則や大学教育通信制度が承認された。

建築学部では、長い間機能していなかった教授と学生の独自プランで学業を推進するという運動が展開された。最初の請願書について社会対策・労働省は大学は企業では無いので雇用者と労働者の関係が成立しないことを理由にSTEUNAMを労働組合として登録することを拒否した。

これは、2月と5月に起こった。社会対策・労働省(STPS)による登録拒否にもかかわらず、メキシコ市経営担当判事は、労働組合の不服申し立てを受け、登録が認められた。これによって活動が開始され、労働条件改善のための新たなる戦いが始まった。マリオ・ファルコン (Mario Falcón) とミゲル・カストロ・ブストス (Miguel Castro Bustos) 率いるグループがUNAM教員養成コースの学生として、武力をもって総長の座と大学都市を乗っ取り、すべての教育業務を中止させ、内部機関を脅迫した。

60日たっても彼らを撤退することはできず、総長はフスト・シエラ (Justo Sierra) 通り第16番地にある国立高等学校においてその業務を再開した。研究機関も研究を再開したが、普通教育課程においては停止状態が続いた。最終的には大学を乗っ取った犯人グループは大学都市から撤退し彼らの一人はパナマに亡命し、他のものは逃亡を続けたが結局、逮捕され刑務所へ送られた。

9月の終わりに核研究所は核研究センターとなった。翌月STEUNAMは25日に ストを決行するとして団体契約への署名を要請した。

総長がこれを拒否したため、生徒達が自発的に行ったストでは無い労働者達による最初のストが決行された。しかし、1930年代にもこのような労働ストの前例が存在はしていた。総長は問題解決のための10の提案をしたがSTEUNAMには受け入れられなかった。11月ゴンサレス・カサノヴァ (González Casanova) は辞任を表明したが、認められなかった。しかし、1ヶ月後 ゴンサレス・カサノヴァ は辞任を表明した。

最後の教職変更としては、教育通信制調整部門(SUA)と、サン・アントニオ (San Antonio)市によってUNAMに土地が提供されたサン・アントニオ・テキサス (San Antonio, Texas) UNAM常設管轄学校が設立された。この学校は1944年よりUNAM後援会の講座を年に1度開いていた。アメリカ在住のメキシコ人もしくはアメリカ人にスペイン語並びにメキシコの文化を教える専属教師が必要った。

この年、メキシコ市の南部と東部にCCHの施設開設。

1973年

1月3日大学役員会で科学研究調整部ギジェルモ・ソベロン・アセヴェド (Guillermo Soberón Acevedo) が総長に任命された。8日、組合側にいわせると、労働スト、一方、大学側からすると、不法な労働業務停止だったため、大学医学部の駐車場を使って総長就任式が執り行われた。

大学事務総長にセルヒオ・ドミンゲス・ヴァルガス (Sergio Domínguez Vargas) が選ばれた。15日労働組合はストライキが終了した。2月には労働者と職員との関係を 規定するための、契約書ではないが、団体協定が結ばれた。大学 評議会は2月13日のセッションでこの協定を有効と認めた。

哲学・文学部から独立して心理学部が設立された。同様にして海洋・湖沼科学研究所が生物研究機関から独立して独自のセンターを創った。また、ソーシャルワーク国立学校が法学部から独立して創られた。

商学国立学校は経理・経営部と名称を変更した。また新たに人文学系の機関で、以前は人文歴史学の中にあった人類学研究所と、人文調整部門の中のイスパノ言語センター、古典研究センター、マヤ研究センター、文学研究センターなどの4つの機関を統合した哲学研究所の2つの機関が独立した形で設立された。

大学普及事業総局と大学議会技術委員会が創られた。情報総局と職業教育・社会奉仕労働総局、そしてそこから分かれた職業教育指導と社会文化活動総局が創られた。

応用数学・システム研究機関とコンピュータサービスセンターが創られた。大学運営内部委員会が設置された。スポーツ活動に関してはスポーツ・レクリエーション活動総局と名称を変更した。

文化普及に関しては、チャプルテペック (Chapultepec) の自然歴史博物館が開館してからほとんど忘れ去られていたチョポ (Chopo) の大学美術館が活動を開始した。また月刊大学新聞「ロス・ウニヴェルシタリオス (Los Universitarios) (大学関係者達)」が発行され始めた。

高等教育専門学校とメトロポリタン (Metropolitana) 自治大学を創設し、翌年からその業務を開始するという発表があった。

1974年

学生総数の増加には目を見張るものがあった。5つのCCH設立のおかげで、この年の在学総数は2万1千535人に達し、そのうちの新入学者数は6万5千370人に上った。

女子学生数は6万2千54人だった。2月19日クアウティトラン (Cuautitlán) 国立専門学校(ENEP)の設立が承認された。これは新しいタイプの学校として、独自の運営機能をもっており、さらに大学学校や学部に左右されない独立した学科があった。何ヶ月か後に大学評議会でクアウティトラン (Cuautitlán) 校と同じ教育観念を持つことを条件にENEPアカトラン (Acatlán) 校、イスタカラ (Iztacala) 校が承認された。大学教職員規則改革案が提出された。

職員を、大学に参加している職員と肩書きをもった職員とに分け、そしてその中でAレベル、Bレベル、Cレベルと分けるというものだった。学部教職員を新たなカテゴリーとレベルに再分類するプロセスが行われた。2千131人の組合員を擁してUNAM大学教職員労働組合(SPAUNAM)が結成された。

9月、三人の判事による合議労働裁判はSTEUNAMの不服申立てを退けた。11月STEUNAMとの労働団体協定の第一回階見直しが行われた。。一方、SPAUNAMは教職員が組合を組織する権利を認めるという団体契約へのサインを要求していた。大学評議会はこの請願書を大学業務委員会と大学議会に提出した。

新しく設立されたENEPを支援して専門研究所の地方プログラムが承認された。最後に、企画総局と議会調査プロジェクト技術委員会が設立された。

1975年

3月14日、ルイス・エチェヴェリア (Luis Echeverría) 大統領は、グスタヴォ・ディアス・オルダス (Gustavo Díaz Ordaz) 元大統領からの慣例だった学業年度開始式典に出席した。この年は医学部で行われ、非常に多くの人々が出席した。式典の最後に大統領に向け石が投げ込まれた。

ENEPアカトラン (Acatlán) 校とイスタカラ (Iztacala) 校の開校式が行われた。歯科学は歯科学部になった。またENEPアラゴン (Aragón) 校とサラゴサ校が設立された。

書誌学研究プログラムが制定された。UNAMの中に新たな建物が建設された。理学部が位置する理学研究都市である。理学部を象徴する伝統的なプロメテオ (Prometeo) 銅像も新しい建物に移動された。そして応用・システム数学調査センターと生物医学調査機関を除くすべての科学研究機関やセンターが理学部引っ越してきた。

理学部移転により空いたスペースに新たに学部の事務所や、理学タワーは経済・社会・哲学研究所、事務局、マリオ・デ・ラ・クエヴァ (Mario de la Cueva) 講堂を擁する人文タワーⅡとなった。また、地質研究機関だった場所は人類学研究所と外国語学習センター(CELE)が使用することになった。

教員組合内の対立は続いていた。問題は1974年の11月1日に遡り、40%の給料値上げと集団労働契約を要求するストライキの召喚状から始まった。ソベロン (Soberón) 総長は規約に従って給与の見直しを定期的に行うことを提案した。

大学評議会は、SPAUNAMとは団体協定への署名を行わないという決断を下し、教職員契約書(EPA)に「教員の組合条件」というタイトルで条項を付加することで合意した。

6月11日、これにを受け労働組合は24時間の労働放棄を決行した。5日後に予告どおり16日から25日にかけてストライキを決行したが、これは労働への違法な法規であると判断された。SPAUNAMは承認され、2年ごとのEPA組合条件文を見直すことを受け入れた。

これと平行して教授の組合化に反対していた教職員による自治協会が発足した。6月18日に協会調整審議会が設立された。大学評議会は、UNAMとSPAUNAMの代表者とUNAM教職員自治協会(AAPAUNAM)間によって署名された、組合の条件が記載された第13章を承認した。

1976年

在学学生総数は27万1千266人で新入学者数は7万9千608人だった。そのうち女子学生数は9万3千686人だった。

2つの科学調査機関が活躍した。理学部は、学部から学部修了者学習部門を独立させ、応用数学・システム研究所(IIMAS)はセンターから研究所になった。

ソベロン (Soberón) 総長は憲法123条に条項Cとして、大学の労働契約に関し具体化した条項の追加を推進した。この動きは教育関係者からの賛同を獲得したが、結局政府からの正式な返答は得られなかった。また、特に労働組合関係者からの反感をかった。

1975年の終わりにPRIから大蔵相だったホセ・ロペス・ポルティジョ (José López Portillo) が大統領候補として選ばれた。選挙は対立候補なく行われた。 大統領教書発表の少し前に具体的な価格が提示されること無くドルに対するペソの切り下げが行われた。このことにより、急激なインフレをもたらすことになった。

UNAMは11月1日から施行されるSTEUNAMとの新しい団体協定を結んだ。16日大学職員の給料引き上げを通達した。教員に関しては年末に教員組合規約(EPA)第13章見直しのための組合員登録プロセスが行われた。SPAUNAMが、3千549人、AAPAUNAMは5千139人の組合員が登録した 。

SPAUNAMは労働省での登録を要請し、教員を含んだ団体契約プロジェクトを提出した。一方で、UNAMの歴史文書について扱う大学研究センター(CESU)が創られた。

運営総局はプログラム予算総局と名称を変更した。扶助サービス局が設けられ、学業費用検討委員会(CECA)が設けられた。専門学術サイクル局とCCHに単位取得後学習コース(UACP y P)が設けられた。

12月30日、大学文化センター内に一番始めに建設されたネサワルコヨトゥル (Nezahualcóyotl) ホールでUNAMのフィルハーモニーコンサートが開かれた。

1977年

ギジェルモ・ソベロン・アセヴェド (Guillermo Soberón Acevedo) 総長が再選され、更に4年の任期を務めることになった。事務総長にフェルナンド・ペレス・コレア (Fernando Pérez Correa) が選ばれた。

ロペス・ポルティージョ (López Portillo) 大統領は教育に関する国家プランを率先して行った。2月にはUNAM教員見解委員会規約が承認された。これはすでにあったが、活動内容を決める規約はまだなかった。大気圏科学センターは研究を開始した。

SPAUNAMは教職員組合の条件を制定する話し合いに当たって、 自分達が少数派であることに気づき、話し合いの場から撤収した。しかし、UNAM側が団体契約に署名しないのであれば、2月7日にストを決行するとした。

こうした中で、UNAMとAAPAUNAMはEPAの第13章に関して合意し署名した。組合が行っているスト決行への予告を総長は違法であると判断した。STEUNAMとSPAUNAMはSTUNAMという名称でひとつの団体になった。そして、職員と教員の労働条件を同じにする条件が記載された団体契約プロジェクトが提出され、もし実現されない場合は6月20日ストライキを決行するとした。

メキシコ大学高等教育機関協会(ANUIES)は、「大学側と教職員との労働関係について法規を制定する必要性」に関する要求があると、グアダラハラ (Guadalajara) で終結した。モンテレイ (Monterrey) では大学労働組合連盟の集会が開かれ、STUNAMが予定しているストを支援するという声明を出した。

6月に入り緊張が高まった。組合が大学をコントロールしようとしているのは違法であると宣言し、確固たる立場を保っていた。これに対して労働組合側はストライキを実行するかまえを示した。STUNAMは大学側の提案を不服とし20日にストライキを決行した。

両方譲らず、UNAMは付属学校に対して場所を提供し、27日の放送で詳細を公表した。和解・審判連邦会議で今回のストライキは違法な労働放棄として、UNAM側は妥当であると判断した方策を自由に採ることが出来るとした。

7月10日大学側と労働組合側は和解に合意した。労働者組の代表が組合を代表していることを大学側が認め、教職員組合(EPA) は第13章規定事項に則り続けることした。これにより、対立は終わったが、後にロペス・ポルティジョ (López Portillo) 大統領によって憲法第3条が改正されたことにより、本当の意味での問題解決となった、

この年の終わりにかけて、文化普及機関やその他の各センターをまとめ役だった大学管轄調整部に所属していたCUECとUNAM映像図書館とが切り離された。

大学院学位取得後学習コース審議会役員事務局、学術交流局・学生課総局ができ、教育センターが教育研究・サービスセンター(CISE)になった。発注・納入総局と扶助事務局は運営事務総局となった。

このようにして教務分野、運営分野、法律分野、科学研究分野、人文分野の副システムが整備され、これらの分野の責任者は、総長直轄の協力者となっていった。

 

1978年

前年に行われた大学の運営システムの再構築に伴い幾つかの調整が行われた: UNAMラジオが部から局になった。また、臨時講座は、外国人対象学校やEPESA、そしてメキシコ市内の区管轄の活動となった。

書籍販売部門は大学管轄調整局のなかの大学書籍販売部になった。

工学部の卒業同窓生の財団によって鉱業宮殿音楽アカデミーという名前のフィルハーモニーオーケストラが創られた。この年は大学が学問的機関として再生した年であったともいえる。

1979年

2月11日自治大学50周年が盛大に開かれた。そこでは科学分野、人文学分野、芸術分野において偉大な業績をおさめた人々に対する名誉博士の授与が行われた。

賞を与えられたものの中にはクロード・レヴィ・ストラウス (Claude Levi Strauss) やアレクサンドル・オパリン (Alexander Oparin) 、オクタヴィオ・パス (Octavio Paz)、ルフィーノ・タマヨ (Rufino Tamayo)、アレハンドロ・ゴメス・アリアス (Alejandro Gómez Arias)、そしてエドムンド・オゴルマン (Edmundo O’Gorman)などがいた。細胞生理学における研究センターでの研究が開始された。

2月26日フアン・ルイス・デ・アラルコン (Juan Ruiz De Alarcón) 劇場の除幕式とソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス (Sor Juana Inés de la Cruz) のフォーラムが大学文化センター行われた。4月23日、エレン・エスコベド (Helen Escobedo)、フェデリコ・シルヴァ (Federico Silva)、マヌエル・フェルゲレス (Manuel Felguérez)、エルスア (Hersúa)、セバスティアン (Sebastián)、マティアス・ゴエリツ (Matías Goeritz) によってデザインされた彫刻美術館の除幕式があった。9月にはバハ・カリフォルニア (Baja California) にあったサン・ペドロ・マルティル (San Pedro Mártir) 天体観測所が作業に入り、また、研究センターが研究学院になった。

12月3日、書誌学研究機関とCESUを取り込んで、また建物も新しくなった図書館と刊行物図書館の除幕式がロペス・ポルティジョ (López Portillo) 大統領によってとり行われた。ラテンアメリカ研究調整・普及センターができた。招へい教授大学センターと視聴覚資材制作大学センターの活動が開始された。

研究・プロジェクト議会技術委員会は研究・プロジェクト議会技術総局となった。


Defensoría de los Derechos Universitarios Portal de transparencia Teléfonos y medidas de emergencia
このwwwサイトの著作権はUNAMにあります。サイトの内容を無断で複写・複製することはできません。ただし、そしきに届け出ることにより変更可能です。情報源