大学評議会は1月25日、科学・人文学校 Colegio de Ciencias y Humanidades (CCH) の創設と、高等教育課程の学業単位に関する規則を承認した。
教育センターでは各分野で新教授法を確立し、メキシコ教育界に貢献していた専門家と教育学者による講座が開設されると共に教授陣の選択も行った。
アスカポツァルコ (Azcapotzalco) とナウカルパン (Naucalpan) とヴァジェホ (Vallejo) に新たに分校が設立され5月から授業が開始された。これによって、学生の数が増加した。学校長・学部長の組合が組織され、その規則が承認された。測定センターと科学・人文情報センターが創られた。
5月の終わり頃、ヌエヴォ・レオン (Nuevo León) 州で州政府と州立自治大学との間で対立があった。ヌエヴォ・レオン (Nuevo León) の学生自治会はメキシコ政府に助けをもとめた。メキシコ市ではUNAM とIPNの学生が援助要求に応じた。このような混乱は6月の初めごろまで続いた。
ヌエヴォ・レオン (Nuevo León) での事態はさらに深刻になり、6月10日木曜日にサント・トマス(Santo Tomás) に隣接するリベラ・デ・サン・コスメ (Ribera de San Cosme)で大規模なデモが行われることになった。エリソンド (Elizondo) 州知事が辞任を表明したにも関わらず、デモは決行されることとなった。
まだデモが始まっていないにもかかわらず、軍隊をまねた「ロス・アルコネス (Los halcones)(鷹)」というグループによって学生が攻撃された。警察はインスルヘンテス (Insurgentes) 地区北部とマヌエル・ゴンサレス (Manuel González) 地区に警戒線を引いた。この事件について誰も責任を取らず、「ロス・アルコネス (Los Halcones)」というグループの存在も否定された。
この直後フローレス・クリエル (Flores Curiel) 警察庁長官とメキシコ市長が辞任を表明した。しかし、この事件の責任者については結局明らかにされず、多くの若い犠牲者を出したという事実だけが残った。後の政治危機は、「エチェヴェリア (Echeverría) 大統領か?ファシズムか?」という二者択一を提案した有力者たちの支援もあって 、彼の政策や政治のスタイルが少しずつ過激な者への発展していった。
国際情勢は一つの独立体形成の可能性に向かっており、第3世界が強くなってきていた。メキシコ国内では大衆運動が再び生まれ、1968年に逮捕・拘留されていた政治犯が釈放され、釈放後何人かは政府に協力を要請された。
大学の予算助成金は膨大なものとなり、UNAMではCCHがその良い見本であった。学生数が増加してきたのは事実である。また一方で、中等・高等教育のための公共施設が開設された。
8月15日歴代総長の中でも偉大な一人であったハヴィエル・バロス・シエラ (Javier Barros Sierra) 総長が亡くなった。11月UNAM労働・職員組合(STEUNAM)が結成され、職権登録の要求をした。
当局と大学職員の大部分がUNAMで締結されている団体契約で専業を規定しているが、これは、自治大学の名を傷つけるものであるとして契約に拒否するものもいた。
運営上の変更がいくつかあった。学生サービス総局が学生運営調整部なり、職員総局、教授総局が無くなり、大学運営職員総局として一つにまとめられた。最後に大学プロジェクト導入技術委員会が設立された。 |