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06/04/2013
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1980年

6月9日、官報に、憲法第3条に第8項を追加することにより、大学の自治を保証し、その他の高等教育機関には法律で知事を与えた。

また、憲法第123条、第A項並びに連邦労働法に則った労働関係に関しても制定された。今回の憲法改正で、大学の労働状況が、国内でも法的に最も高いものとなった。

科学コミュニケーション大学センターが設立された。ENEPクアウティトラン (Cuautitlán) 校は高等教育学部クアウティトラン (Cuautitlán) 校となった。海洋・湖沼科学センターは海洋・湖沼科学研究機関になった。

窒素の定着と固定に関する研究がクエルナヴァカ (Cuernavaca) 研究センター行われた。美術館学士調査研究・サービスセンターが始業した。AAPAUNAMとSTUNAMに所属する職員は前者が6千582人、後者1千316人に達した。

つまり、AAPAUNAMが、EPAの職員組合条件証書に代わる団体契約に署名する刺客を有していたことになる。

大学文化センターの中にミゲル・コヴァルビアス (Miguel Covarrubias) ホールとカルロス・チャヴェス (Carlos Chávez) ホールが創られた。鉱業宮殿で第一回国際ブックフェアが開催された。216もの出版社が参加した。海洋学部の船「エル・プーマ (El Puma)」号が進水した。

学生在学総数は29万4千542人に達した。教員の数は2万7千515人で、職員は2万3千716人に上った。ギジェルモ・ソベロン・アセヴェド (Guillermo Soberón Acevedo) 総長の任期が終わった。

1981年

新しい総長には医学部長だったオクタヴィオ・リヴェロ・セラノ (Octavio Rivero Serrano) が選ばれた。 事務総長にラウル・ベハル・ナヴァロ (Raúl Béjar Navarro) が選ばれた。付属学校総局が再構築されたが、外国人のための教育機関はそこから切り離され、外国人教育センターとなってEPESAに取り込まれることになった。大学サッカーチームのプーマス (Pumas) は4-2でクルス・アスル (Cruz Azul) チームを負かし2回目のリーグ優勝を果たした。

国立建築学校は建築学部となった。学術プロジェクト総局、書誌学大学研究センター、コンピューター大学プログラム、食糧大学プログラム、臨床医学研究大学プログラムなどが創られた。

大統領候補に 内閣予算プログラム相だったミゲル・デ・ラ・マドリッ・ウルタド (Miguel de la Madrid Hurtado) が選ばれた。選挙運動の基盤として、公衆道徳の革新のために戦うことを打ち出した。

1982年

まず連邦政府による予算削減プロセスが開始された。「浪費運営」に終止符が打たれた。インフレ率が上昇した。デ・ラ・マドリッド (De la Madrid) 大統領候補の道徳的な名声は多くの支持を得た。最後の大統領教書発表でロペス・ポルティジョ (López Portillo) は銀行と為替相場の国有化を発表した。

為替相場の国有化は大学が外国から書籍購入や必要研究資材購入に大きな問題をもたらした。エネルギー大学プログラム並びに遺伝・バイオテクノロジー工学調査研究センターが創られた。

サン・イルデフォンソ(San Ildefonso) とプリモ・ヴェルダッド (Primo Verdad)にあった第1・第2・第3付属高校はノリア (Noria)、イスタカルコ (Iztacalco)、アラゴン (Aragón) に移転した。一方、国立高等学校総局はデル・ヴァジェ (Del Valle) 区に移動した。

ミゲル・デ・ラ・マドリッ ド(Miguel de la Madrid) 大統領は、ボリヴァル (Bolívar) 劇場の出席し、社会科学における調査機関としてフスト・シエラ (Justo Sierra) 大学プログラムを創設すると発表した。また、調査研究と大学拡大の実現のためにも修復されたサン・イルデフォンソ (San Ildefonso) 校を活用することになった。

1983年

技術発展総局が発展された。4月29日、STUNAMは給料賃上げを要求して仕事を停止した。5月末日、ストライキが決行され、6月27日まで続いた。労働組合は大学側が出した条件を呑むことでこの運動を終わらせた。

9月大学キャンパス内に124.5ヘクターの自然保護区域をつくった。クエルナヴァカ (Cuernavaca) に多目的研究センターが創られた。総長は「職員の人事変更のための評価と参考枠組み」という書類を大学評議会に提出した。

1984年

リヴェロ・セラノ (Rivero Serrano) は大学が抱えていた問題を解決しようといくつかのプロジェクトを提案した。このプロジェクトには多くのUNAMの教職員、卒業生及び大学生が参加し、自らが責任者となって大学内で学生の意見を積極的に聞きに活動した。

65ものプロジェクトが大学評議会に提出された。それぞれのテーマによってが扱う副システムに応じてグループ分けがされた。事務総長は、全てのレベルでの教育関係機関及び教授陣並びに学業に関連した諸手続き機関と調整を図った。

運営部、法律関係部、科学・人文調査部、大学付属学校部、文化普及部などがそれぞれのプロジェクトの承認を取った。承認されたプロジェクトはプログラムという形で大学に組み込まれていった。

これらの活動を纏めて重要な大学改革と看做され、学長の大学計画的発展プランへと繋がっていった。またこの年は特に気を配って海外の大学との二カ国間協定も結ばれた。海外の主な大学として、アメリカのシカゴ大学、UCLA大学、カナダのブロック (Brock) 大学、ドイツのベルリン・フンボルト (Humboldt) 大学などがあった。

技術開発総局は技術革新センターとなった。大学文化センターのなかにフリオ・ブラチョ (Julio Bracho) ホール映画館とホセ・レヴエルタス (José Revueltas) 映画館がつくられた。

海洋・湖沼科学研究機関のロス・トゥクストラス (Los Tuxtlas) にある海洋生物学基地の施設が拡大され、プエルト・モレロス (Puerto Morelos) に新たに研究基地がつくられた。また、海洋学部の船「フスト・シエラ (Justo Sierra) 」号が進水した。

大学教科書緊急プログラムが開始された。北アメリカ学習センターがつくられた。大統領により国立研究者システムが提唱された。多くのUNAM関係者がこのシステムに名を連ねた。

1985年

元法律研究所長のホルへ・カルピソ・マクグレゴル (Jorge Carpizo MacGrégor) が総長に就任した。また、ホセ・ナロ・ロブレス(José Narro Robles) が大学事務総長に選ばれた。

総長は大学関係者の権利保護団体をつくった。最初の大学オンブスマンは名声のあるホルへ・バレラ・グラフ (Jorge Barrera Graf) だった。大学卒業者事務局が運営する大学卒業者の参加と協力に関する規約が制定された。

高等教育学校長学会がつくられ、その規約も承認された。大学運営にはさまざまな変更が加えられた。大学教科書緊急プログラムは常設となった。

大学内コミュニケーション総局と大学内サービス総局は排除された。そのかわり、他の機関に所属していた2つの副局がまとめらて職務総局が設けられた。

大学普及総局と大学視聴覚教材生産センターは大学テレビ総局となった。

企画局、予算局、運営局の3つが統合され、企画・予算・運営研究調整部門ができた。歴史調査研究所の管轄で、メソアメリカ・チアパス州人文調査研究センターができた。

細胞生理学研究センターは細胞生理学研究所となった。5月、大学で優秀な成績を修めるかもしくは素晴らしい功績を称えるための国立大学賞を与える為の大学功績者授与規約を追加することが承認された。

メキシコ市を大地震が襲い、大多数の死者や負傷者、被災者が出、建物もかなり破壊された。多くの大学の教職員並びに学生達は、社会支援グループを組織し、災害救援活動に携わった。

1986年

フスト・シエラ (Justo Sierra)大学プログラムと北アメリカ研究学習センターがなくなり、人文諸学提携研究センターとなった。

大学書籍流通部門は出版振興総局となった。文化交流総局が文化普及調整部になり文化交流総局が廃止された。同調整部内に文学局、演劇・舞踏局が創られた。

マリオ・デ・ラ・クエヴァ (Mario de la Cueva) 幹線道路沿い人文研究都市に最初に建てられた法律調査研究所が開所した。4月16日総長は「UNAMの強い点と弱点」と題した 診断書を大学評議会に提出し、診断プロセスが開始された。

1ヵ月後、生徒により構成されている大学評議員の何人かがその診断に不正を申し立てた。9月3日、この診断は終了した。大学は9月11日、12日に長時間にわたる審議の結果、総長が提案したUNAMの機関や学部のレベルを上げる26の案について承認した。これにより、試験規定、登録規定、大学学位取得後学習コース規定、一般規定などUNAMの規定について変更する必要があった。

9月24日、哲学・文学部のマグナ (Magna) 会場で行われた総会で、総長によって提案されたこの大学改革は拒否された。数日後、労働組合も同様の行動に出た。総長は大学の将来のためにも一歩も後に引かず前進あるのみとし、学長室事務局は承認された大学改革拒絶に対して集会を行った。

10月31日、支払いと試験に関する変更を阻止するため学生大学審議会(CEU)がつくられた。大学改革について公の場での話し合いを求め、学長室事務局に対して召喚を依頼した。11月CEUはUNAM改革について討論するために大学評議会を開くよう要求した。

総長はこの要求を拒否した。しかし、この状況を審査するための5人制役員会を設けることには賛成した。11月12日、大学議会委員会と大学評議会教務委員会とCEUの代表者たちが集まって話し合いがもたれた。

学長室事務局委員会は抗議のあった規則の見直しについて検討する特別委員会を設けることを提案した。12月15日に、1月6から12日までの日程でこの検討会議が行われることで合意された。

1987年

1月6日、CEU側と学長代表者達との話し合いが始まった。この話し合いはUNAMラジオで中継され、フスト・シエラ (Justo Sierra) 講堂で行われた。大学の代表者達は、例えば支払いの規約に関しては調整をすることを提案したが、入学試験と入学試験免除制度への改革に関しては一歩も譲らないとした。

CEUは規則改革案の取り消し、和解会議の招集、助成金の値上げなどを要求し、この要求が受け入れなければ1月29日にストライキを決行すると発表した。学長側から今回出された新しい提案をCEUは拒否した。

1月20日総長は大学評議会が決定し、その際の規定を明確にするのであれば、大学会議を開催することを認めると発表した。総長は2月10日に大学評議会を開くことを発表した。1月29日CEUはSTUNAMの支援でストライキを決行した。

大学評議会は予定されていた日に市民工学学校の講堂で開かれ、 議論されている法規の停止と大学会議の開催が決定された。この会議で決まったことに関しては時宜を得て実行に移すことを学長側が約束した。

2月18日ストライキが終了した。

10月大学評議会特別委員会は大学評議会組織委員会(COCU)を構成する16人の教職役員と他の役員を選出する規定を発表した。この選挙は12月3日に行われた。

総長は5月に歴史調査研究所と美学研究所の建物の除幕式を行った。後に人文総合研究所並びに哲学・文献学調査研究所も開所された。

国内情勢としては、PRIによる選挙候補者選抜の日程が近づいていた。候補者はカルロス・サリナス・デ・ゴルタリ (Carlos Salinas de Gortari)、マヌエル・バルトレット・ディアス (Manuel Bartlett Díaz)、アルフレド・デル・マソ (Alfredo del Mazo)、セルヒオ・ガルシア・ラミレス (Sergio García Ramírez) などだった。

クアウテモック・カルデナス (Cuauhtémoc Cárdenas) とポルフィリオ・ムニョス・レド (Porfírio Muñoz Ledo) はPRIから脱党した。彼らを幾つかのグループが支持した。10月、経済学士であるカルロス・サリーナス・デ・ゴルタリ (Carlos Salinas de Gortari) が大統領候補に選ばれた。

選挙運動は白熱しはとても興味深く熱狂した。他の大統領候補には、シナロア(Sinaloa) の州知事でもあったPANから支持されたマヌエル・J・クルティエル (Manuel J. Clouthier) 、PSUMから支持されたエベルト・カスティジョ (Heberto Castillo)、多数の党やグループから支持されたクアウテモック・カルデナス (Cuauhtémoc Cárdenas) などがいた。

1988年

核研究センターが研究所になり、エコロジーセンターがつくられた。クアウテモック・カルデナス(Cuauhtémoc Cárdenas) はUNAM内の本部前広場で2回にわたる集会をおこなった。選挙戦最終段階で候補者のひとりエベルト・カスティジョ (Heberto Castillo) がカルデナス (Cárdenas) を支持して大統領選出馬を辞退した。選挙の結果は論争となった。PRIはメキシコ市とミチョアカン (Michoacán) 州の下院並びに上院の過半数を失った。

51%の支持率でカルロス・サリナス・デ・ゴルタリ (Carlos Salinas de Gortari) が大統領に選ばれた。UNAMはSTUNAMによる給料値上げ要求のストライキによって閉鎖された。期待した回答は得られなかったが、政権交代式典の2日後の12月3日まで大学の機能は停止した。

この間、総長は北アメリカ研究大学プログラムをつくった。フェリックス・クエヴァス(Félix Cuevas) 通りの事務所で行われた役員会議では新総長決定の審議が行われた。

1989年

理学調査のコーディネーターだったホセ・サルカン (José Sarukhán) が総長に就任した。事務総長にはホセ・ナロ・ロブレス (José Narro Robles) が再選された。大学改革の中で傑出した出来事は北アメリカ調査プログラムがセンターになったことがあげられる。

大学内の官僚的な仕事の削減を目的として、他の組織に組み込まれていたさまざまな課題を解決する場として、立案企画総局が立案・評価・学業プロジェクト総局となった。

文化普及顧問委員会がつくられた。大学会議実施にむけての一般召集が承認された。大学としての学校教育の更なる躍進をめざして、さまざまなプロセスを試していった。大学学科教授・研究員のための調査開始促進プログラム、学究青少年のための国立大学待遇、教授の研究・革新プロジェクトサポートプログラムなどが含まれる大学の教授や研究員の学部でのサポートと学究リーダーシッププログムなどが含まれた大学の学術化プロセスが進み始めた。

高等教育強化プログラムが設けられた。図書システムの近代化・革新プログラムも設けられた。大学電話システム革新プロセスが進み、最初のサテライト衛星による大学遠距離通信ネットワークが導入された。大学評議会組織委員会(COCU)は大学会議開催のための規則をつくった。


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